元ネタを知ると知らないで面白さが段違いのマンガ(『聖☆おにいさん』『へうげもの』『大奥』)

中村光『聖☆おにいさん』4巻が発売された。これはおそらく予備知識がなくても十分に面白いだろうとは思うのだが、キリスト教や仏教についての知識があれば(つまり、元ネタがわかれば)面白さは倍増する。

同様に歴史の知識があれば面白さが倍増する歴史マンガとして、よしながふみ『大奥』と、山田芳裕『へうげもの』がある。いずれも独自の設定を行なっていながら、そこでそういうふうに史実と合わせるか、というストーリーの妙が素晴らしい。

元の素材を殺すことなく、大胆なアレンジをしてうならせる。その料理の妙が素晴らしい。今回はこの三作について考察してみた。なお、ほんの少しネタバレがあるので、気になる方は上記三作を現在の単行本刊行分まで読んでからどうぞ。

2009年10月27日00:34| 記事内容分類:書評| by 松永英明
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中村光『聖☆おにいさん』

『聖☆おにいさん』は、イエスとブッダが東京立川に下宿するという物語である。しかし、文字通り浮世離れした二人が、仏典や聖書のエピソードを踏まえつつ、大騒動を繰り広げてしまう。ブッダがシルクスクリーンで手作りしたTシャツの文字を初めとして、ちょっとした台詞や行動に至るまで、これでもかというほど宗教上のネタが仕込まれている。

きまじめな信仰者にとっては、これは腹立たしい内容だ、不遜だ、失礼だと思われることもあるようだ(聖☆おにいさん を読みました。その1 - 久保木牧師のblog ~ゆるりと生きる~ - Yahoo!ブログなど)。

しかし、原始仏教に傾倒し、Q資料的に抽出されたイエスに関心を持つ私にとっては、一部後世に作られた偽経や後世の風習などに左右されている点が多少気になるものの(たとえば盂蘭盆会など)、全体としては「よくぞこれだけ知っているな、よく調べているな」と感心してしまうのである。

たとえば「天上天下唯我独尊」という、ブッダが生まれてすぐに述べたという言葉。これは、『聖☆おにいさん』Tシャツ文字のモトネタ一覧[絵文録ことのは]2008/07/28で書いた元ネタ解説をセルフ引用すると、こういう言葉である。

山折哲雄の『仏教用語の基礎知識』では「釈迦は誕生してすぐに立ち上がり、「天上天下唯我独尊(天にも地にも我は最尊なるもの)」と告げたという。釈迦は最高の敬いと祈りをささげられる対象であったから、その生誕は天界の花々と甘露を持って神々に讃えられたといい、釈迦自身も「天上天下唯我独尊」と告げたと伝承される」と書かれている。「全世界で私が最も尊い」という堂々たる宣言である。
この言葉について、「どれ一つとして尊くない命はない」と解釈するのは、日本仏教界の一部に広まっている誤り。

これが、第4巻「その24」ではこんなやりとりに化けてしまう。

ブッダ「私 生まれてすぐ「天上天下唯我独尊」って言ったでしょ?」

イエス「ああ……でもあれ『どんな命も仏の私と同様に尊い』って意味なんでしょ?」

……

イエス「……そのままの意味だったの……?」

ブッダ「若いうちは 皆 何かしらやらかすでしょう?」中二病みたいなものだよ

この解釈を見て笑わずにいられようか。うまいことアレンジするなぁと感心せずにはいられない。元ネタを知らなくても聖者の若気の至りを思わせて面白いと感じるだろうが、このひねり方を楽しむには、上記の元ネタを知っていなければ無理である。

そういうわけで、仏教とキリスト教の基本的な知識があれば、これは楽しめること請け合いである。少なくとも、「立川になじみがあるからこのマンガを買ってみたけれども、宗教的知識は皆無」という人にとっては、全然面白くない可能性がある。

ちなみに、手塚治虫版「ブッダ」はかなり手塚色にアレンジされているので、元ネタとしてはおすすめしない。

山田芳裕『へうげもの』

連載では「これは「出世」と「物」、2つの【欲】の間で日々葛藤と悶絶を繰り返す戦国武将【古田織部】の物語である。」と紹介されている。古田織部という実在の風流武将を主人公に、戦国から江戸時代に至る歴史を描く。いかに「数寄者」としての頂点を目指すか、陶器の美を究めるか、という欲にまみれた織部の突っ走りっぷりが何ともいえない。

千利休や、信長、秀吉、家康その他数々の武将たちと関わっていく。それは、古田織部や利休などにまつわる史実を踏まえながら、そのキャラクターをさらに発展させ、すさまじいまでのフィクションを盛り込んでいくのである。

そこには、史実を知っていれば、なるほどこういう設定にするのか、こう組み合わせるのか、といった驚きがある。史実を知らなくても面白いだろうが、やはりその裏返し方、それでいて史実と巧妙にすりあわせていく巧みさが光る。

最大の仕掛けは「本能寺の変」の真犯人とその黒幕なのだが、明らかに史実ではない設定にもかかわらず、ストーリー自体は史実通りに動いていく。そこが巧妙なのである。こんなこともありえたかもしれない、というフィクションの組み込み方が絶品だ。しかし、本能寺についてはこのマンガの大きなネタバレになってしまうので、ここでは詳細に書けない。

私が個人的にうなったのは、天海(随風)と光秀・家康の関わり方の設定だ。私は天海の大ファンであり、とにかく調査研究中なので、これは非常に気になるところである。さて、世間には、光秀は生き延びて天海僧正になったという妄説があるのだが(これは100%ありえない伝説である。天海の前半生は明らかであり、光秀と重なることはありえない)、それでも天海と光秀には何らかの関係があったのかも、と思わせる要素はないわけではない。たとえば、天海が中興して東照宮を置いた日光には「明智平」という地名がある。

そういうわけで、『へうげもの』において、108歳の寿命を誇る天海が家康・秀忠・家光の三代に仕えて、黒衣の宰相となったという史実と、その天海と光秀を結びつけたい後世の伝説をうまくミックスし、しかも安易に天海=光秀説に走ることなく、「天海が光秀の死を看取った」という場面を挿入してきたのである。この展開になったとき、私はもうそれこそ大金時様が目を覚ます勢いであった。

物事の起源を勝手に作り上げてしまうのもこのマンガの味となっている。最も圧巻なのは伊達政宗の芝居がかった台詞と動作だ。どういうキャラ設定なんだ?と思っていたら、それがやがて「おくに」と出会い、さらに「伊達」という言葉につながっていく。「瀬戸物」や「七本木」など、史実ではないのだが、うにょうとした起源が織部につなげられていくのだが、それがまた心地よい。

史実ネタを踏まえた上で、それをゴチャゴチャにかき回し、三回転ぐらい「めぎゅわ」とばかりにひねり倒して、最後にはまたまた史実に戻る。そんな力ワザが効いているから、信長が「愛」などという当時あり得ない発言をしても許せてしまうのである。タイトルがポップスやロックの名曲をもじったものであっても、逆に「これぞわびさび」と納得できてしまうのである。

史実としての織部については『古田織部の茶道』あたりが詳しく、これを読めば、その死までなおも波瀾万丈が続くことがわかる。その織部の生涯を「へうげもの」がどう料理するか、まさに見物である。

古田織部の茶道 (講談社学術文庫)
桑田 忠親
講談社 ( 1990-07 )
ISBN: 9784061589322
おすすめ度:アマゾンおすすめ度

よしながふみ『大奥』

よしながふみの他の作品で、読めないものがある。いわゆるBL、男×男モノは読めない。だから、『きのう何食べた?』でもちょっときつい。ましてやそれ以上のBLは不可である。断じて読めない。だから、「男女逆転大奥」「美男三千人」というキャッチフレーズでよしながふみの新作が宣伝されたとき、うっかり「大奥で男と男が」みたいな話を想像して、当初は完全にはねつけていた。

しかし、ある人から強く薦められて読んでみたら、もうまったくそんなことは全然ない。それどころか、「歴史の元ネタをうまいぐあいにアレンジして架空歴史を作り上げてしまった傑作」だとわかったのだった。

宇宙世紀ガンダムにおける「ミノフスキー粒子」に匹敵する存在(すなわち、ストーリー展開を決定づける重要な道具)が「赤面疱瘡」という病である。この病によって男性人口が激減し、生き残った少ない男は種付け用に重宝され、社会を動かしていくのは女性中心となる。武家も女子が継ぐようになり、八代将軍吉宗も、大岡越前もまた女であった。吉宗はこの不自然さを不思議に思い、大奥の記録係に尋ねる。彼は三代将軍家光の時代からの生き残りで、そのころまでは男と女がほぼ同数だったという……。

単純に男女を入れ替えたというだけではなく、それを裏付ける背景も巧妙に作られている。そして、イスパニア船の来航を禁止し、オランダ人を出島に封じ込めたのも、由井正雪の乱も忠臣蔵も、すべてがこの赤面疱瘡に由来すると語られれば、これまたうなるしかないのである。お万の方とお玉の設定も、史実をうまく反映している。生類憐れみの令に至る伏線も意外であった。

男女逆転という異常な事態が、表向きは史実と同じ事件を呼び起こす。そして、その異常さに吉宗は気づいている……。そんな微妙なバランスのもとで、この物語は成り立っているのである。

ネット等ではこのマンガについてフェミニズムあるいはジェンダーの観点から読み解いているものが見受けられるが、私は、よしながふみがそういうことを語りたくてこのマンガを描いたとは思わない。おそらく、大奥の男女が逆転していたとしたら、それはどうして起こったのか、どういうふうに展開していくのか、と考えたのだろうと空想する。そこにフェミニズムだの何だのは介在しないと思う(もちろん、読者がこの物語をフェミニズム的に読むのは勝手である)。

大奥は映画化の話も進んでいるようである。だが、単に「イケメン揃いの大奥」という煽り文句で釣るのではなく、この歴史改変ものとしての「設定の妙」をうまくアピールするような作品になってほしいと思う(「花ざかりの君たちへ」は、台湾ドラマ版『花様少年少女』では忠実に再現されていたのに、日本ドラマ版は「イケメンパラダイス」というふざけきったサブタイトルですべてぶちこわしてしまったことを想起されたい)。

設定はしっかりと

そういうわけで、史実や元ネタをしっかり踏まえた上で意図的に改変し、その変化そのものを楽しさにつなげているのが上記の三つのマンガであるといえる。

私自身は、こういう元ネタの設定をうまく活かしているものを読めば素直に驚き、素晴らしい作品だと思う。

一方で、そういう設定をないがしろにしている場合には、決して楽しめない。その最たる例が『グイン・サーガ』である。歴史上あるいは伝説上の様々な地名や人名が無造作に用いられており、その元となった地名・人名にまつわる歴史などを知っていると、逆に違和感ばかりが募る。大体、ヴァラキアが海沿いの国だとか(史実のワラキアは内陸国だ)、一巻冒頭でケイロニアがノスフェラスの東にあると語られていたのがいつのまにか方角が変わっているとか、外伝の時系列と本編の時系列が狂っているとか、まあいろんなものがまぜこぜに使われていて気持ち悪いことおびただしい。そういう、設定をないがしろにした作品はまるで楽しめない。

もちろん、設定に凝ればよいというわけではない。設定だけでそれ以外に能のない作品だってありえる。しかし、今回挙げた三作品は、いずれも設定の妙を生かし切った名作だ。こういう作品を私は渇望しているのである。

追記(10/29)

ブックマークコメントで、元ネタを意識して読むことに対する反発がいくつか見られる。もちろん、本の読み方に「正解」はないのだからその人の好きずきではある。

しかし、である。たとえば『究極超人あ~る』のようなマンガについて、元ネタを知ろうとしなくてどうするのか、と思う。もちろん、「あ~る」は元ネタ知識皆無でも面白いことは言うまでもないが、ロボットの名前に必ずRがついているとか(アシモフ)、よりによって自転車の名前が「轟天号」だとか(海底軍艦)、知っている人だけが笑えるネタが数限りなく出てくるわけである。

「あ~る」は言うまでもなく、ストーリーや登場人物こそオリジナルであるものの、パロディやオマージュに充ち満ちた作品である。そういう意味で言えば、『聖☆おにいさん』は聖書・仏典・宗教史のパロディやオマージュであるし、『へうげもの』や『大奥』は、単に歴史を舞台にとったというだけではない、歴史のパロディでありオマージュとなっている作品といえる。

そして、パロディやオマージュを含む作品は、その元ネタに思いを馳せてこそ、完全に観賞できると言い切ってよい。

なお、中には元ネタ知識が必須かと思わせておいて、実はいろいろそれっぽいものを適当に放り込んだだけというエヴァンゲリオンみたいな作品もあるので、要注意である。

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2009年10月27日00:34| 記事内容分類:書評| by 松永英明
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