入試カンニング擁護論を批判する。カンニングは自分自身をおとしめる行為だ

ついに入試問題カンニング学生が「逮捕」つまり刑事事件化するという発展を見せた。愉快犯説も多かった中、私は当初からそうではなく本気で大学に合格したかったのだとツイッター等でも述べてきたが、おそらく私の見方は正しかったように思われる。もっとも、複数による携帯を使わない手法という私の憶測は外れているかもしれない。

その中で「カンニングすることは問題ではない。逆に公正な手段だ。むしろ失敗したことが問題」というようなコメントが当方のブログに寄せられた。私はそのような見方には一切与さない。論点は3つ。

1)本来学力を問われる試験において、学力や問題回答力ではなくズルをするというテクニックによって問題を回避するのは、たとえどのような理由があろうとも、会社の利益のために脱法行為をするのと同じく、適正なことではない。

2)目先の短期的な利益を実現するという結果を得ることが最大の価値であって、手法などはどうでもよい、という考え方そのものが根底的に人生観として誤っている。少なくとも私には採用できない生き様である。

3)そもそも、四年制大学あるいは一流大学に入ることがその後の人生の成功に必要不可欠と考える風潮(新卒の就職活動も含む)そのものが根本的におかしい。この学生も大学に入る以外の選択肢が与えられなかったことから追い詰められたと考えられる。したがって、この学歴前提の社会通念を根底からぶっ壊す必要がある。

以下、詳細に述べる。

2011年3月 4日23:00| 記事内容分類:日本時事ネタ| by 松永英明
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補論:逮捕はいきすぎか

刑事事件に至ったことが行きすぎだという意見もあるようだが、私はそれほどだとは思わない。ただ、マスメディアでトップニュースとして流すほどの話題かといえばそれほどではないとは思う。

この件について私はこう思う。大学入学後の試験と入試の大きな違いは、入学後は大学に所属している学生が対象であるのに対し、入試はまだ大学に入っていない「部外者」を対象としている。したがって、入試でのカンニングは大学外部から大学への挑戦であり、大学内部で処理できる範囲とは言い切れない要素がある。大学内での学問の自由や自治を守るというのと、大学選抜方法への外部からの挑戦への対抗というのは次元が異なっても仕方のないことだ。

本論:寄せられた投稿

私のブログに寄せられた意見は以下のとおりである。

果たして、カンニングは汚い手段なのだろうか?公平さを狭義に解せばそうなるだろう。
しかし、幼稚園入学の時から受験対策をしている一部私立学校の人たちとはスタートラインが違っている不公平もある。親の年収なども考えれば、受験制度のみ公平でも、それは不公平なのである。

技術の革新をも利用して、あらゆる手段を総動員して戦うのが大学受験であり、カンニング自体が非難されるべきではなく、愚かにもインターネット掲示板を利用して足が付いた間抜けさが非難されるべきとは言えないだろうか?

人生は戦場なのである。勝てば官軍との言葉もあるように、勝てばよいのである。そして、今回の事件で当事者が反省すべきは、カンニング行為そのものではなく、ネットで質問を募るようなヘマをしでかした事を反省すべき。「もっと上手く事を成し遂げるべきだった」という形で反省してもらいたいと思います。

実在しないメアドで匿名にて投稿されているため、この投稿者の背景はわからないが、まずこの意見の要旨を確認しておこう。

  1. カンニングは不公平だというが、親の年収等によって受験生のスタートラインが異なる時点で不公平である。
  2. 技術の革新をも利用して、あらゆる手段を総動員して戦うのが大学受験である。
  3. 人生は戦場なのである。勝てば官軍との言葉もあるように、勝てばよいのである。そして、今回の事件で当事者が反省すべきは、カンニング行為そのものではなく、ヘマをしでかした間抜けさである。「もっと上手く事を成し遂げるべきだった」。

この投稿内容すべてに対して同意できない。以下、順次述べておく。それは、私自身の人生観を明らかにすることでもあると思う。

入試そのものが不公平という論について

上記投稿では「幼稚園入学の時から受験対策をしている一部私立学校の人たちとはスタートラインが違っている」と指摘されている。「お茶の水女子大学 | NEWS&INFO | 耳塚寛明教授の研究調査結果、NHKテレビニュースで紹介」にあるように、小学六年生の子どもの学力と家庭所得の相関性が裏付けられるデータも確かに存在する。塾や予備校に通える、あるいは私立進学校に通えるならば当然、通いたくても通えないより有利であるだろう。

しかし、それは固定的・確定的なものではない。東大の学内広報でも毎年「学生生活実態調査の結果」が報告されている。現時点で最新の報告としては、学内広報No.1406(2010.12.6:PDF)がある。この18ページに「家庭の状況」に関する図9「親元の年収分布」グラフがある。これによると、年収950万円以上の親が42.3%と約半数を占めるが、一方で450万円未満の親も20.1%はいるのである。

塾や予備校や私立学校に入れば有利になるかもしれないが、そうでなければ合格できないのかといえば、まったくそういうことはない。これらの不公平を埋める試みは、奨学金などもある。

私の場合は、小学校から一貫して学習塾には通っていない(習字などの稽古事はある)。いじめが原因で中学は私立に行かねばならなかったが、ここも進学校というわけではない。高校で大阪の私立進学校に入ったが、独学を貫いていた。高校3年の春に父親が亡くなり、現役予備校に通う余裕はなかった。一年浪人したが、浪人中は大阪予備校の特待生で授業料ゼロを勝ち得ていた。もちろん、私は正々堂々と二回受験した。

親の収入の不公平は是正されるべき部分であろうが、不正行為の言い訳にはならない。「うちは貧乏だから、金持ちの子より不利なので、カンニングをしてもよい」などという理屈は成り立たない。しかも、今回カンニングを行なった予備校生の家の収入はどうだったのか、まったく不明である。今回の件と、「家庭の収入による進学率・合格率の差の是正」は一体化して論じるべきではない。

大学入試がいかに不十分でも、批判するなら適切な方法がある

「技術の革新をも利用して、あらゆる手段を総動員して戦うのが大学受験である」(コメント原文ママ)というのはさすがに極論ではないか。もちろん、受験勉強期間における工夫は当然あってよいだろう。しかし、試験会場で携帯電話等を使ってカンニング行為を行なうというのは、もはや正当な手段の範囲を超えた不正行為であることは論を待たない。

社会において、私たちは当然、結果を求められる。しかし、その結果を得るための手段は何でも構わないというのであれば、それは犯罪者の詭弁、あるいは本来の目的を見失った者の言い訳にすぎない。会社においてとにかく結果を出すことが求められ、そのための圧力が大きいとしても、そこで手段を問わないとすれば単なるブラック会社である。私たちはあくまでも「適正な手段によって、正々堂々と結果を出す」ことが求められているのである。

自分の身につけた知識や応用力や推理力などをフルに生かして戦うのが大学受験であるとしても、「あらゆる手段」が認められるわけではない。たとえ現在の大学入試試験の内容や形態が学生選抜方法としてふさわしくないとしても、そのルールを破っていいということにはならない。

さらに言えば、あらゆる手段を講じることができるとすれば、それは当然金持ちが有利なはずである(マイクロカメラを仕込んで問題を送信し、雇った教師に解かせて、骨伝導スピーカーで受験生に伝えるにはカネがかかる)。貧乏人に不公平だとコメント者に指摘された入試ではあるが、そう考えると蓄えた知識や頭の働きをフル回転させるという意味で誰もが同じ土俵に乗るという点ではさほど不公平ではないといえるはずだ。

なお、私も大学入試というのが「知識量」と「解答テクニック」に偏っている点は問題だと思っている。持ち込みは可能な範囲で何でも可、ただしそれを自分のものとして理解した上で表現していなければゼロ点、というようなテストが可能であれば、それは理想的だろう。ただ、私が社会人になってから受けたいろいろな資格試験・検定試験などを思っても、やはり一定の知識量が実務に必要な部分はある。入試においても、一概に知識部分の問いを切り捨ててよいということにはならないだろう。この点については、このスペースでは述べきれないので改めて考えたいと思う。

いずれにせよ、たとえ入試制度がいかにひどくても、それをカンニングという手法で乗り越えようとした時点で、その人に正当性は失われるということである。

「とにかく勝てばよい」という発想は八百長と同じ

もう一度コメントを引用しよう。

人生は戦場なのである。勝てば官軍との言葉もあるように、勝てばよいのである。そして、今回の事件で当事者が反省すべきは、カンニング行為そのものではなく、ネットで質問を募るようなヘマをしでかした事を反省すべき。「もっと上手く事を成し遂げるべきだった」という形で反省してもらいたいと思います。

私はこのような考えに基づいて生きたくない。勝てば官軍、勝てばよい、手段は何でもいい……そんな生き方は絶対にしたくない。目先の短期的な利益を実現するという結果を得ることが最大の価値であって、手法などはどうでもよい、という考え方そのものが根底的に人生観として誤っていると私は信じる。

渋沢栄一は「論語とそろばん」すなわち経済活動においても倫理性を備えることが必要だと強調していた。金儲けにいちいち倫理性など必要ない、儲けたら勝ち、カネがなければ何も始まらない、というような考え方は、まさに「精神的に貧しい」と言い切ってよいだろう。

それは八百長と同じである。「不正行為であろうと何だろうと、負けてやった方はカネを手にし、勝たせてもらったほうは昇進と引退後の生活の安泰が得られるのだから取引は成り立っている」といって正当化するならおかしなことである。その八百長を認めるのと「カンニングしたところで、バレなければ勝者」という考え方はまったく同じである。

なぜバレなくてもカンニングはいけないのか。それは、人生はどんな手を使おうと勝ちさえすればいい、というものではないからだ。もし人生訓的に「どんな手を使っても勝て」と言われた場合、それは「ずるい手を使っても」ではなく、「自分が苦手とするような方法でもがんばって乗り越えて」結果を出せと言われているのである。このあたりを曲解して、自分の弱さをごまかして安易な手段に走る言い訳にしてはならない。

不正行為を認めるのは、自分の弱さを正当化することである。だからやってはならないのである。私はここで「他人の迷惑になる」「真っ当な方法でやっている人たちに失礼だ」というような観点は持ち出さない。こういった他人との関係については充分に世間で言われているからだ。しかし、そういった理由付けは、不正を抑止する力としては弱い。だから、私は「不正行為をはたらくことは、その不正を行なった人自身にとってマイナスだ」という観点で指摘する。

不正行為をして、一時的にはトクしたように感じるかもしれない。小さな勝利は得られるかもしれない。しかし、その人は壁に正面からぶつかって乗り越える(あるいは乗り越えられずに倒れる)という貴重な体験を自ら捨てたということになる。しかも、次に壁が立ちはだかったとき、同じように横道から回避する手段を考えるようになるだろう。それは、人生における最大の損失ではないか。

転んだら、転んだところからいくらでも学べる。それを再挑戦に生かしたり、別のどこかで生かしたりできるような生き方こそが尊いのである。だから、ズルはいけない――それは自分自身を冒涜し、おとしめ、バカにする行為だからである。

しかも、大学入学など、人生の関門としてはただ一つの通過点にすぎない。それをあたかも最終目標であるかのごとく勘違いしているところに、根深い問題がある。

大学に入ることは成功のための必要条件ではなく、十分条件でもない

そもそも、四年制大学あるいは一流大学に入ることがその後の人生の成功に必要不可欠と考える風潮(新卒の就職活動も含む)そのものが根本的におかしい。だが、この学生も大学に入る以外の選択肢が与えられなかったことから追い詰められたのではないかと思う。したがって、この学歴前提の社会通念を根底からぶっ壊す必要がある。

そもそも、私は今の四年制大学のあり方に納得していない。大学を四年間で出られるように単位を揃え、三年生から始まる就職活動でよい企業への就職先を決めることが「成功」の一本道であるかのように定められていて、それに対してはさんざん疑問が呈せられてきたはずなのに、それでもやはり「新卒の内定率が低い」だのどうだのということがニュースになっている、つまり新卒採用が絶対的価値として世の中の前提となっている。

四年制大学で学んだことがその後の社会人生活でどれくらい役に立つかといえば、専門技能職や研究職でもない限り、ほとんど関係ないともいえる。それなら、「学問・研究大学」と「社会人予備大学」に分けてしまってはどうか。社会人予備大学では基礎教養や実践的な語学や情報リテラシー教育に加えて社会人としてのマナーやルールやITスキル(会社の新人研修でやるような内容)を教えておき、最後の1年に集中して就職活動をする。一方、学問・研究大学では本来の大学のような学問を行なうが、就職活動は在学中は禁止とする。学生は院に進むかフリーランス/起業するかの二択であるが、企業の研究部門からの募集も受け入れることとする。……というような大学制度を妄想しているが、ここは本題ではない。

いずれにしても、「よい大学に入る=よい企業に就職する=よい人生を送る」ということが、本来は別々のことなのに一体化してしまっていることが問題だ。大学と就職が一体化している部分も問題だが、一流企業に入ることが「よい人生」「幸福」に必要不可欠なものであると思われていることがそもそもの間違いといえる。

「一流大学合格=一流企業就職」は「よい人生」にとって必要不可欠なのか? あればそれにこしたことはないが、なくてもよい。なければ不幸になるというわけではない。では、「一流大学合格=一流企業就職」があれば「よい人生」になることは保証されるのか? それである程度収入の安定した生活ができる確率は上がるかもしれないが、この不況下、大企業も安泰ではないことも逆に証明されているし、またそれだけでよい人生になることは確定していない。したがって、それは必要条件でもなければ十分条件でもないといえる。

さらに、一定程度の生活の安定を得るためにはお金は必要とされるが、生活がある程度安定した場合、それ以上の部分の幸福感というのは実はお金の有無と相関しない。むしろ、どれだけの満足感を得られるかというのは外的な要因よりも本人の意識次第ということになる。不満ばっかり言っていて誰も信用できない金持ちより、家族みんな仲良く和気藹々と暮らしている中の下の家の方が幸せというような例はいくらでも挙げられる。なお、聖人君子の場合は一定程度の生活の安定というものさえも不要になるが、そこまでは求めない。

こういう視点から見た場合、「大学合格」というものが絶対的な価値ではなくなり、失敗したとしてもまあいろんな道があるわな、ということになる。そうなれば、カンニングというようなコスい手を使って自らをおとしめるようなことは頭にも浮かばなくなるはずである。

今回のカンニング擁護論にもいろいろな立場があると思うが、以上のような理由により、少なくとも「勝てば官軍なのだからカンニング自体には問題がない。ミスをした間抜けさが問題だ」という意見について、私はまったく賛同できない。

前回の結語をもう一度締めの言葉として記しておく。「カンニングや八百長で勝つより、正々堂々と闘って破れた方が素晴らしい。コスい手を使うな。馬鹿正直でもいいじゃないか。ものごとは決して短期的な結果だけじゃない。――そう言い切れる社会になってほしいものである」。

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2011年3月 4日23:00| 記事内容分類:日本時事ネタ| by 松永英明
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コメント(2)

カンニングがルールを逸脱した行為である事は論を待ちません。しかし、受験を一種のスポーツ
競技であると考えれば、審判にばれなければある程度のルール違反はOKと考える事も出来ます。

マラドーナの神の手ゴールとカンニングは類似しています。審判の目をごまかしルールを逸脱してゴールを決める事を含めて試合であり、ばれたらペナルティを受ける。ただ、それだけの事なのです。

叩かれる事を含めカンニング行為の社会的ペナルティではありますが、カンニングに倫理を持ち出し叩いている方に正義はありません。カンニング行為は倫理的・道徳的観点からは非難される筋のものではないのです。

カンニングは自分を貶める行為ではなく、人生ゲームの戦術の一つです。倫理的な意味で反省することは、今回捕まった学生の将来のためにもなりません。ただし、安易なカンニングは他人の不興を買い、割に合わないと言う意味でなら反省すべきでしょう。なお、カンニングで入学するほうが価値はあると思いますけどね。ただ、やるなら完璧にやれよとも思います。

一方、飲酒運転などは厳しく非難されるべきです。他人の生命・安全を脅かすような行為は、ばれなかったからと言って反省するだけでは足りません。他人の生命・安全を賭けて、自分の短期的な利益を追求することは割に合う合わない以前に倫理的に許されません。

松永様

ご意見拝見いたしました。概ね同意です。
一般論ではなく私見として語られている点も好きです。
「どんな手を使っても~」の解釈について、素敵なお考えですね。
私の子供にも伝えたいと思いました。

以下、1個目のコメント書いた子へ
もうちょっと考えてから書いて欲しいです。

受験はスポーツではないし、「審判にばれなければある程度のルール違反はOKと考える」事など論外でしょう。そんなスポーツ見たこと無い。
(コモンセンスではなく、一部の実力の足りない競技者による、敗者の弁では?)

「安易なカンニングは他人の不興を買い、割に合わないと言う意味でなら反省すべきでしょう」というなら、
「カンニング行為は倫理的・道徳的観点からは非難される筋のものではないのです。」というのも他人の反感を買うでしょ。
(『自分は何言っても嫌われない』って自信があるのかしら?)

倫理面で問題視する必要は、もちろんあるの。
社会ってのは、ルールやモラルなど諸々ないと成り立たないの。
たとえば、信号無視した車にはねられたら、君も文句言うでしょ?これ道交法ってルール。
たとえば、列に並んでて割り込まれたら、嫌な思いするでしょ?これモラル。

みんなで同じ土俵に立って同じルールで勝負するから、人生って面白いの。
コスい手で勝っても気持ち良くないでしょ?少なくとも私はそう。
自分に自信が無いと、根拠が勝ち星でしか測れないから、先走っちゃう子もいるけど、
強い人って、押並べて「失敗から学んべる人」じゃないかね?

著者が伝えたいのは、「カンニングも正当な手段だ」って公言しているようでは、周りから尊敬されるレベルにはなり得ない、って事じゃない?

嗜めるように書いてしまったけど、私の正直な気持ちは、
入試の問題を他人に訊かないと分からないレベルでは、完璧なカンニングなんて出来るわけもないし、
カンニングしてるレベルの人間とは、百害あって一利なしだから、一緒に居たくないですね。
・努力を知らないやつは諦めが早くて頼りにならないし
・人に訊かないと入試問題も解けない能力じゃ使えないし
・ルールを守れない=嘘つきだから信用できないし
・尊敬できない人と話してても暇つぶしにもならないし

もっといろんな事を勉強して、いろんな力を付けて、またこの問題を考え直してみてください。
スポーツも勉強も仕事も、実力が上がってくると、見える景色が変わってきますから。

ではごきげんよう。

>松永様
乱筆にて失礼致しました事、お詫び致します。

このブログ記事について

このページは、松永英明が2011年3月 4日 23:00に書いたブログ記事です。
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