結核の街・清瀬を歩く。結核療養所のすべて

結核の街として知られる清瀬を歩いてきた。埼玉県との境に位置する清瀬市は、日本でも多くの結核療養所が集中して建てられている「結核の街」だった。東京府立清瀬病院を皮切りに、公営・民営の結核療養所が集まり、最終的には15の療養所を数えることとなったとされている。

ここでは俳人・石田波郷や、吉行淳之介が療養生活を送っていたことでも有名だ。

これらの療養所は、今は結核専門ではない。結核の治療法が変わり、結核が「薬を飲めば治る病」になって、療養所は役目を終えたといえる。しかし、あるものは廃院となり、あるものは一般病院となったとはいえ、結核の街の記憶は消えるわけではない。

そんな清瀬の「ゲニウス・ロキ」をたどるべく、現存する病院すべてを実際に訪ねてみた。

2009年4月15日15:26| 記事内容分類:医療・健康, 地理・地誌| by 松永英明
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『サナトリウム残影』をテキストに歩く

テキストは、高三啓輔『サナトリウム残影 結核の百年と日本人』である。これはサナトリウムをキーワードに結核の百年史を描いたものだ。いや、厳密にいえば日本医療の百年を結核という切り口から描いたものといえるだろう。北里VS大学病院だとか、陸軍から生まれた厚生省など、現在の医療行政に関わる問題がさらりと記されている好著である。

今回は清瀬サナトリウムガイドとして本書を用いることとした。この本にあげられた清瀬市の結核療養所を実際に歩いてみたのである。すると、2003年に書かれたこの本とは状況が違うところもあり、また、一部新発見もあった。

実際に歩いたルートや、撮影してきた写真総数138枚は、メルマガ「「場所の記憶」「都市の歴史」で社会を読み解く――松永英明のゲニウス・ロキ探索」2009年4月13日号「No.030:結核療養の街・清瀬を歩く」で詳細に紹介している。

こちらのブログでは、清瀬の結核関連病院が建てられた順に並べ、写真も厳選して紹介することにする。清瀬病院街史と考えていただきたい。


より大きな地図で 清瀬市結核療養所サナトリウムの記憶 を表示

清瀬の病院街の歴史

東京府立清瀬病院

昭和6年10月設立。東京府(当時)による大規模かつ本格的なサナトリウムとして、当時は雑木林だった清瀬駅の南に建てられた。ちなみに、同じ雑木林の東村山市の領域には、ハンセン氏病の療養所が作られている。

この清瀬病院によって、清瀬に多くの結核療養所が集まってくることとなった。俳人・石田波郷、作家・吉行淳之介もここにいた。

清瀬病院は昭和37年に東京病院と合併した。しかも廃院となったときに旧清瀬病院の建物が火事でやけてしまい、現存していない。その名残の碑が公園に残されている。

東京府立清瀬病院跡

「碑誌 結核が死に至る病であったころ、当時無医村だった清瀬のここに、東京府が結核療養所として、府立清瀬病院を作りました。それはやがて国公私立15の療養所や研究所となり、全国からの入院患者は多いときには5000人を越えるほどになりました。清瀬は結核治療のメッカといわれました。現在、結核は不治の病ではなくなりましたが、世界の結核学者で清瀬の名を知らない人は少いでしょう。ここは、そういう歴史の出発地点です。」

東京府立清瀬病院跡

静かな公園の中に碑が残る。

国立看護大学校

公園の隣、もと清瀬病院跡には国立看護大学校が建てられている。→国立看護大学校

リハビリテーション学院国立病院機構東京病院附属リハビリテーション学院

国立看護大学校の南側、おそらく清瀬病院の旧敷地内に、リハビリテーション学院があった。石碑にはこう記されている。「わが国最初の理学療法士および作業療法士専門養成施設発祥の地。国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院 昭和38年5月1日厚生省によって設立された。初代学院長 砂原茂一 パイオニア精神に基づいた全人的医療教育が行なわれた。独立行政法人国立病院機構東京病院附属リハビリテーション学院として平成20年4月1日閉校となる。」

慈生会ベトレヘムの園

昭和10年4月、ヨゼフ・フロジャクによって「療養農園」として建てられた。現地を訪れてみると、現在はカトリック秋津教会・ベトレヘム修道院に隣接して、ベトレヘムの園病院、聖ヨゼフ老人ホームが並んでいる。→社会福祉法人 慈生会 ベトレヘムの園病院

ベトレヘムの園病院

ベトレヘムの園病院

ここもそうだが、清瀬の結核関連病院は現在、老人ホームを備えているところが多い。結核医療から老人医療にシフトしつつあるようである。

救世軍清心療養園

昭和14年3月、救世軍日本本営(キリスト教の一派)によって設立。現在の複十字病院と東京病院の間にある。現在は救世軍清瀬病院。教会、チャペル、ホスピスが同じ敷地にある。→The Salvation Army Kiyose Hospital

救世軍清瀬病院

救世軍チャペル

傷痍軍人東京療養所

昭和14年11月、厚生省によって設立。非常に広い敷地を抱えている。後に東京病院となり、清瀬病院と合併した。現存する国立療養所東京病院はおそらく清瀬市南部で最大級のものだろう。→独立行政法人国立病院機構東京病院

東京病院

東京病院の桜

裏手に「外気舎」など結核療養所時代の名残が残されている。緑がきれいで健康的な空間だが、それはもちろん結核という病の暗い歴史を抱え込んでいるのである。

東京病院裏手

外気舎

外気舎内部

「外気舎記念館 傷痍軍人東京療養所は昭和十四年に建設されたのでありますが、同時にその一番裏手の松と雑木の静かな武蔵自然林内に別図のごとく診療室および食堂を中心として外気舎七十二棟が扇形に建設されました。そこでは一棟に二人づつ作業患者が入っておりました。その頃はまだ結核薬のない時代で大気・安静・栄養が結核治療の主軸であり、外気舎はその名のごとく外気療養を行うと同時に作業療法患者の病舎でもありました。作業療法盛んな頃は七十二棟の外気舎も満員で一三〇名から一四〇名ほど入舎しておりましたが、昭和四十一年四月に作業患者が十八病棟に移転すると同時に外気舎も廃止されました。ところが今度その一部を移転、ここに記念館として永久に保存することとなりました。」

外気舎の建物は、小さな小屋である。行ってみると入り口のガラス戸が破れ、半ば放置されているような状態だった。

再起奉公

傷痍軍人「再起奉公」の碑。

寿康館

寿康館の跡。講堂、集会所といった用途で使われたようだ。

出発点

「出発点」。「外気療法を行っていた患者様を中心に「出発点」に集合して自分で脈拍を数えて軽い体操の後、それぞれ決められた距離を歩き、歩行後の脈を記録していました。1日100m往復からはじめ、1km往復まで距離を伸ばして卒業して、次の段階に進むという大変慎重なものでした。当時、作業療法をはじめると菌が止まっていたのが再び微量排菌が始まることがよくあり、大きな課題であったようです。リハビリテーションは3段階でA歩行療法、B作業療法、一部の人はC補導療法(薫風園での職業訓練的作業療法)と順を踏んで社会復帰に向けていました。……作業は1日1時間からはじめ6時間までこれも厳密に設定されていました。」

桜の園

隣接する雑木林を昭和十七年に購入して農場と運動場が作られた。戦時中は運動場が次第に畑になったという。昭和31年に桜の木を購入、患者の作業療法として植え付けた。

桜

桜の花を手折って老母に手渡す女性。

社会事業大学

東京病院の敷地の南端部分が、現在は日本社会事業大学となっている。

上宮教会清瀬療園

昭和14年12月、上宮教会によって設立。以上3つはいずれも昭和14年の設立であり、この年に一気に療養所が増えた計算になる。上宮教会は上宮太子すなわち聖徳太子信仰の仏教系。「清瀬上宮病院」から「清瀬リハビリテーション病院」に改名している。「特別養護老人ホーム上宮園」「上宮園デイサービスセンター」などが隣接している。結核の街は老人ホームやターミナルケアの街に変わりつつある。→清瀬リハビリテーション病院

上宮病院

信愛報恩会信愛病院

昭和15年11月、信愛報恩会によって設立。これも教会系で、すぐ横に信愛教会がある。立地的には、ベトレヘムの園病院のすぐ近くである。現在は一般病院で、老人ホームも併設。→社会福祉法人 信愛報恩会 信愛病院 | 東京都(清瀬市)

信愛病院

信愛教会

清瀬浴風園

昭和18年3月、日本鋼管が社員のために作った。現在は廃院(『サナトリウム残影』による)。

清瀬保養院

昭和18年7月、河田重によって設立。現在は廃院(『サナトリウム残影』による)。

現存しない施設は場所がはっきりしなかった。なお、戦前に建てられた療養所は以上である。以下、戦後の施設である。


東京都職員清瀬療養所

昭和22年5月、東京都健保組合によって設立。「東京都職員共済組合清瀬病院」となり、平成14年に東京都職員共済組合青山病院と統合した。青山病院も平成20年3月末に閉院。ややこしい経緯があるようだが、未調査。

結核研究所附属療養所

昭和22年11月、結核予防会によって設立。平成元年に「財団法人結核予防会 複十字病院」と改称した。隣接して「結核研究所」がある。→複十字病院(財)結核予防会結核研究所

ちなみに、結核研究所自体はもともと昭和14年、東村山市の保生園内に設立され、昭和18年に清瀬に移転してきたものである。保生園は現在、新山手病院となっている。八国山の麓にあり、「となりのトトロ」でおかあさんが入院している「七国山病院」のモデルとなった。

複十字病院

結核研究所

清瀬の複十字病院と結核研究所。

清瀬小児結核保養所

昭和23年11月、東京都によって設立。ホームページによると、昭和9年に結核のアフターケア施設として「東京府立結核療養所清瀬病院付属清和園」が設立され、戦時中に妊産婦の疎開収容施設「清瀬産院」に転用、その後昭和23年に日本初の小児結核専門療養施設となったという。現在は都立清瀬小児病院。平成21年度末には、清瀬・八王子・梅ヶ丘の3つの小児病院を統合し、都立府中病院の隣接地に「小児統合医療センター」とする予定。清瀬市内にあった共産党のポスターで、小児医療機関を守れと訴えていた。ここも間もなく失われる結核関連施設である。→都立清瀬小児病院

清瀬小児病院

生光会清瀬療養所

昭和28年、山田寅次郎によって設立。現在は廃院(『サナトリウム残影』による)。ネット検索によると、昭和55年7月「財団法人生光会病院」に改称、平成3年8月解散。「明海大学歯学部付属明海大学病院生光分院」となる。平成10年4月「明海大学歯学部付属生光診療所」、2002年3月31日に廃止となった。→生光診療所を廃止

生光会?

生光会の跡地と思われる場所。明海大学の敷地となっている。

薫風園付属病院

昭和31年2月、東京民生事業協会によって設立。2003年に執筆された『サナトリウム残影』では「一般病院」と書かれていたが、行ってみるとまさに解体工事の真っ最中だった。清瀬の結核病院街は今まさに大きな変化の中にあるといえる。

薫風園

織本病院

昭和39年12月、重症結核の外科治療を主体とする外科医院として織本正慶が開設。結核治療のトレンドは「療養」から「外科治療」へと変わっていた(その後、投薬治療の時代となる)。→織本病院・ブログDr.由利の心のカルテ

この病院だけが清瀬市の北の外れの方にあり、西武線の南側の病院街から遠い場所にある。といってもこのあたりも武蔵野の雑木林の残る一帯である。

織本病院

竹丘病院

昭和45年1月、清瀬の結核関連施設としては最後に作られた。医療法人保養会。現在も同名で存続している。→医療法人財団保養会|竹丘病院|介護老人保健施設たけおか|

……ところが、このウェブサイトを見ると、どうも事情が違っているようなのだ。

  • 昭和18年7月 沖電気、日本鋼管、日本鋳造の3株式会社出資による結核療養所「清瀬保養園」設立
  • 昭和36年8月 結核患者の減少により上記3社より独立し医療法人財団清瀬保養園設立
  • 昭和45年1月 医療法人財団 竹丘病院と名称変更

『サナトリウム残影』によれば、「清瀬保養院」が昭和18年7月に設立され、現在は廃院と記されている。これは名称が一字違いで設立年月が一致しているので、実際には清瀬保養園(or保養院)の後継として「竹丘病院」が生まれたということになるのではないか。清瀬保養園と竹丘病院が併存していた時代はないと思われる。

この竹丘病院は、竹丘一丁目アパート・二丁目アパートの団地のそばに位置する。この団地自体が病院跡地ではないかという気もするのだが、現時点でその資料は手に入っていない。

竹丘病院

清瀬の病院街

以上、『サナトリウム残影』に記された15施設のうち、現存とされていた施設をすべて回った。上記のとおり「清瀬保養院」とされていたものが「清瀬保養園」=「竹丘病院」であるとするならば、清瀬市内の結核関連施設は14か所。しかし、結核病棟が残る病院もあるものの、すべてが一般病院(もしくは小児科病院)となっていた。また、老人ホームを併設しているところが多く、清瀬の結核病院街は老人医療にシフトしつつあるように思われた。

2009年4月の時点で現存する施設は9施設、そして近々、都立清瀬小児病院が移転していく。残る8病院はいずれもしっかりしており、今後も存続しそうだが、結核の街の記憶は失われつつあるのかもしれない。

結核報道についての補記

ところで、先日の箕輪はるかさんの結核感染騒動で、某ワイドショー番組をたまたま見ていたところ、医師から「結核患者がマスクをしないで町を歩くのはテロと同じ」と言われた、という証言が流れていた。確かに排菌している場合、結核菌をまき散らさないようにするのは患者の義務であるし、安易に考えないように患者に気をつけるように医者がこのように告げることはないとはいえないが、こういうコメントをテレビ局は流すべきではない。これは「医師が患者に釘を刺すため」に(あえてきつい表現として)言うならばともかく、それ以外の状況で言うべき言葉ではないからだ。このような報道により、「結核にかかったら社会から排除すべきだ」という認識がまき散らされることになる。

『サナトリウム残影』にはこんな一節がある。

 昭和二年の結核予防デーのスローガンには、

「肺結核患者は、間接的殺人者」。

「患者の自覚と公徳心が必要 人類愛のために」

 と書かれていた。気象庁長官を務め、自らも長い間結核患者として苦しんだ和達清夫がその著作『療養者のつづる日本の肺病』に記録していることである。そして和達は、このようにいう。

「大見出しにこう書かれては、肺病患者はいたたまれない。……『国民の敵、結核予防の声を聞け』『肺病の痰は火のなき爆裂弾』等というものもあった」

まったく同じだ。昭和二年から、何も変わっていない。

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2009年4月15日15:26| 記事内容分類:医療・健康, 地理・地誌| by 松永英明
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コメント(3)

心配な人は、情報をあれこれ読んで不安になるより、保健所で相談を受ければいいと思うよ。費用がかかるにしても、かなり安いはずだし。あと、発熱が続いていたり寝汗をかき続けていない限り、急ぐ必要もない。あとは、行政側が、夜や休日に相談を受け付けてくれるといいんだけどね。あくまで、個人的な考えだけど、塩分不足と免疫力低下は関係あると思う。発汗が強かったり、カリウム過多でも塩分不足になるし。こういう環境下で働いていたり生活している人は注意した方がいいと思う。

清瀬の結核病院のところで、近所にハンセン病の施設の事が書かれていました。こちらの
方は結核病院よりずっと前に建てられていましたね、明治の終わりに建ってましたから。当時
東京府立でした。この病院を建てる時、騒動があって、相当な怪我人が出ましたが(地主
の許可を取っていたにも関わらず、反対派が
襲いかかってきた)ハンセン病療養所は大抵、住民から嫌がられて反対運動が起こっていました。結核の病院も似たような事があっていたのでしょうか?

国土地理院のサイトから、1948年に米軍が撮影した航空写真が見られます。http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=R809&photono=169

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このページは、松永英明が2009年4月15日 15:26に書いたブログ記事です。
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