【書評】『日本人が知らないウィキリークス』:サイバースペースvs主権国家の闘争

知っている人が書いているというのもあって、『日本人が知らないウィキリークス』を購入して読んだ。ネット上の感想では7人の共著者のうち一部に称賛が集まっているようだが、私にとってはどの章も興味深かった。以下、章ごとに簡単に感想を述べてみたい。

日本人が知らないウィキリークス (新書y)
「日本人が知らないウィキリークス (新書y)」
 [新書]
 著者:小林 恭子,白井 聡,塚越 健司,津田 大介,八田 真行,浜野 喬士,孫崎 享
 出版:洋泉社
 発売日:2011-02-05
 by ええもん屋.com

2011年2月12日00:41| 記事内容分類:世界時事ネタ, 書評| by 松永英明
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タグ:ウィキリークス, 書評|
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章ごとの感想

第1章 ウィキリークスとは何か〈塚越健司〉

Project .reviewの編集メンバーでもある塚越さんによる、ウィキリークスについての基礎知識・概要まとめ編。ネットでも非常に好評なパートだ。ウィキリークスのたどってきた経緯を時系列に沿ってまとめており、非常にわかりやすい。ウィキリークスに興味がある、あるいは論じたいならまずここを読むべきだと思う。

個人的には、ウィキリークスがリーク情報を公開するための手法が徐々に変化している点に興味を持った。ネットというのはアサンジにとってあくまでも手段であり、目的は「国家によって秘匿された情報を公開することによって世界を変える」ことなのだということが感じ取れる。

第2章 ウィキリークス時代のジャーナリズム〈小林恭子〉

在英ジャーナリストの小林さんによるジャーナリズム論。「ジャーナリズム」の定義そのものが今後変わっていくのではないかという立論は非常に興味深い。

私自身はこういうブログで時事的な話題について意見などを書いていても、自分がジャーナリストとして振る舞っていると考えたことはない。ジャーナリズム、特に「社会の木鐸」として権力(あるいは悪)を摘発するという行為が、「自分自身を正義と定義する」という前提に立たねばできないことであるが、私は自分の発言や発表が社会正義であるとは考えない(あるいはその前提に立たない)ことを信条としている。少なくとも自分の見方はある偏向があるということは常に前提としており、それは社会にとってよいとは限らない場合もあると常に自覚するようにしている。その前提がある以上、私は「社会の木鐸」にはなりえない。ただ、私が見聞きしたこと、そして私が考え、感じ、信じることを「ただ表明する」ことを貫いていきたいと思っている。

そのような立場は、この章で挙げられた「ジャーナリズムの原則」10項目とは相容れない部分も非常に多い。たとえば私の最初の忠誠の対象は市民ではなく、私自身である。そういう点を確認できた意味でも、この文章は興味深かった。

しかし、この章の本領はその後にある。過去のペンタゴン文書リーク事件とウィキリークスについて、共通項と相違点を明確にしているところは、今後のウィキリークスの「リーク」そのものを考える点で非常に参考になる。

そして最後に「ウィキリークス時代のジャーナリズム」、このような時代のジャーナリズムのあり方についての考察が興味深い。

マスメディア機関と共同作業を行いながら、世界中の読者に向けて情報を発信する――ウィキリークスはこれを「新しいジャーナリズムの形」と定義している。ネットも含めた広い言論空間、国籍を超えた言論空間のなかの1つがウィキリークス、というわけである。

これまでのジャーナリズムが担ってきた「情報の検証、分析、解説、論評」の部分はマスメディア機関や一般の個々人(情報の受け手)に任せ、「一次情報を提供すること」だけを担当するという形の「ジャーナリズム」というのが、ウィキリークスの示した新しい形態だ、という指摘は重要だろう。

この流れは、sengoku38が「動画を見て判断するのは個々の人に任せたい」と言ったのと方向性は一致しているように思われる。

ただし、「情報の検証、分析、解説、論評」の役割は今後も不要にはなるわけではないと思う(アサンジもそれを否定せず、むしろ連携・協力を必須のものと考えている)。膨大かつ専門的な一次資料を正確に読み解き、そこから「意味」を引き出す仕事は、生データが大量に流れるようになる以上、今後ますます重要性を増すはずである。メディアの役割としては、一次情報のスクープ合戦ではなく、いかに深く鋭く正確に読み解くかが勝負となるのだろう。

第3章 「ウィキリークス以後」のメディアの10年に向けて〈津田大介〉

ツイッターの解説で注目された津田さんらしく、「マイクロ・ジャーナリズム」「リアルタイム報道」とよばれる現象(居合わせた市民がツイッター等で第一報を流すケース)を踏まえた上で、メディアは「検証」の部分で重要性を増すことを指摘している。これは第2章とも共通する見方で、この点はもはや揺るぎない見方といっていいのだろう。

いずれにせよ、ウィキリークスは、ウィキペディアに代表される集合知編集作業(いわゆるWeb2.0)がネット上である程度実現し、またツイッターなどによって一次情報を誰もが垂れ流せるという2010年前後のネット状況を踏まえて生まれた現象である、ということは重要な視点だ。

「権力監視の分散化」と「メディアによる検証機能の再評価」という2つのキーワードが重要だという見方は、非常にうなずけるものである。

また、「プロセスジャーナリズム」(ソーシャルメディアを駆使して公開の情報や議論をもとに調査報道を深めていく)という言葉にも興味を持った。

第4章 ウィキリークスを支えた技術と思想〈八田真行〉

技術的に造詣の深い八田さんの解説である本章もネットでは人気が高いようだ。

ウィキリークスで匿名性を守るために取られていた対策として、「接続のログやファイル内の個人情報を残さない」方法と並んで、ウィキリークスからも素性を隠すための手段が必要とされたが、その双方が用意されていたことが解説されている。特に後者の手段としてのTorの仕組みの解説は読み応えがある。

だが、私がさらに興味を持ったのは後半の「思想」部分だ。前世紀に私も触れた「サイファーパンク」の潮流がウィキリークスにつながっているという指摘は非常に重要だと思う。私もPGPは利用していた。だが、それを生み出した思想とウィキリークスの思想、つまり「一般市民の情報は政府から秘匿し、政府の情報は全世界に公開する」ということは、ここで指摘されるまで気づかなかった。

いずれにせよ、量子コンピューターが実用化されない限り、「公開鍵・秘密鍵」方式などサイファーパンクからの潮流を支える技術は、たとえ一部が法的に禁止されたとしても姿を変えて生き残ることだろう。

第5章 米公電暴露の衝撃と外交〈孫崎 享〉

かつて国際情報局長として各国情報機関とも接触してきた、いわばスパイ諜報機関のトップ経験者の孫崎氏が、漏洩されたアメリカの公電の内容を分析している章。これらの公電は、実際の外交の舞台裏で何が行なわれているかを示すだけではなく、それが公開されることによって外交上も様々な影響が生じることが指摘されている。

さらに、日本の場合はわずか2通の電報が重要な事実を暴露しているようである。たとえば、外交安全保障政策がアメリカの戦略と一致しないときには、アメリカが介入している可能性があるが、それを裏付けているようである。

そして、これらのリークの最大の悪影響は、各国間の「信頼関係」にひびを入れる可能性が大きいということのようだ。

今後の外交に与える影響として、孫崎氏は、外交交渉における本音を隠せない時代がくることを示唆している。だが、「対外的に充分に説明責任を果たしうる言動を基礎に国際関係が構築されていくのであれば、この流れは基本的に好ましいことなのではないか」と孫崎氏は考えている。それは多少楽観的にすぎる見方かもしれないという気はするが、確かに理想としてはあってもよい考え方だと思う。

第6章 「正義はなされよ、世界は滅びよ」〈浜野喬士〉

哲学・思想系の浜野さんによるこの章は、いわば「これからの内部告発の正義・公益の話をしよう」とでもいうべき内容である。ある内部告発が正当化されるためには、それが公益にかなうという前提が必要だ。この点について、透明性や民主主義を絡めて考察していくこの章は、ウィキリークスの倫理的側面からの分析といえよう。

そして、ウィキリークスでの情報暴露の根拠は、従来型の特定の「市民」「公益」「民主主義」には求められないとする。

ウィキリークスを正当化する根拠となるのは、そのような特定の利害関心に限定されることがない純粋なもの、いわば「純粋公益性」、「純粋市民」、「純粋公益」、「純粋民主主義」とでも呼ぶべきものである。

この「純粋公益」を探るために、フーコーの「パレーシア」という用語を用いるのがこの章の独自解釈といえる。アサンジはパレーシアステース(本稿をもとに私なりに乱暴にまとめると「勇気を持って真実を語る人」とでもなろうか)であるがゆえに、多くの人たちからの支持を受けるのだ、という(このあたり、はしょりすぎると浜野さんの言いたいことは伝わらないと思うので、ぜひ原文を読んでいただきたい)。

ここからさらに発展して、ウィキリークスはいわば原理主義的な民主主義者である、という指摘、そして「正義は行なわれよ、たとえ世界が滅びようとも」という思考が働く余地があるということも示されている。私にとってはこの章もやはり興味深いものだった。

第7章 主権の溶解の時代に〈白井 聡〉

政治学・政治哲学の白井さんが最後に「主権国家」という大きなテーマに絡めて論じる。「国家」という枠組みそのものに疑問を持つ私にとっては、これもまた見逃すことのできない内容だ。

近代世界において最強の政治システムとして機能してきた主権国家と、ウィキリークスの暴露は正面から衝突せざるを得ない。しかも、情報の領域のみならず、経済をはじめとするほかの多数の領域において国家主権の絶対性がゆらぎつつあるこの時代において、ウィキリークス事件は起こった。ゆえに、大きな文脈で見るならば、この事件は主権国家の時代の終わりを示す徴候のひとつとして考察されるべきである。主権は溶解しつつある。溶解の果てに開ける秩序はいかなるものとなるのか、なるべきなのか。

ロシア革命(ボリシェヴィキ革命)と今の状況の類似性が指摘される。その上で、ウィキリークスに直接影響を与えた思想として、楽観主義的なeデモクラシー論、カリフォルニアン・イデオロギー、サイバー・アナキズムといった用語が示される。ここで例示されている1996年のバーロウによる「サイバースペース独立宣言」には、私もそのころ影響を受けたものだ。そして、これは4章のサイファーパンクともつながる内容である。

そして後段では「主権国家」の溶解の状況について述べられる。それはこのスペースでは論じきれないほどの大きなテーマではないかとも思うが、しかし、大きなターニングポイントにある現在の状況を俯瞰することができるように思う。

全体を読み終わって

全体の構成をキーワードでおさらいすると、ウィキリークスの「歴史」、「ジャーナリズム」、「ソーシャルメディア」、「技術とサイファーパンク思想」、「外交」、「純粋公益性」、「主権国家の溶解」という7つの視点からまとめられていることになる。

さらにまとめると、概要(1章)、ジャーナリズム(2・3章)、技術的思想(4・7章)、政治・外交(5・7章)、倫理(6章)という多角的な側面を概観することになっており、ウィキリークスの全貌をとらえるにはバランスのよい入門書となっているのではないかと感じた。

自分自身が表現者であるという点から、ジャーナリズムの今後の変化についてはじっくり読むことができた。ただ、それ以外の部分が私には新鮮に映った。

私自身が触れ、影響を受けてきたサイファーパンクや「サイバースペース独立宣言」といった流れが、一方でウィキリークスという形を取った、ということはこの本を読んで初めて気づいたことだ。そういえば「サイバースペース独立宣言」の頃には、現実の社会とは別に国境のない別の世界としての「サイバースペース」が自由な情報空間として今後打ち立てられるだろうという希望的観測(とそのための闘争)があったように思う。だが、2000年ごろを境に、現実と遊離してサイバースペースが独立し得るものではない、という見方が強まったように思う(それもまた本書で、楽観的な見方が弱まったと指摘されているとおりである)。そこにはやはり主権国家の溶解という流れが大きく絡んでいるのだろう。

ただ、「純粋公益性」を私は「絶対的な正義を振りかざすというあやまち」につながりかねない危険性をはらむものと直感的に感じる。以前、「ウィキリークスの本当の「恐怖」――情報の受け手のリテラシーが問われるとき[絵文録ことのは]2010/12/08」というブログ記事を書いたが、それはこの点についての懸念を記したものだった。これについて「純粋公益性」というキーワードが示されたことは非常に有益だった。

ただ、細かいことだが1つ指摘しておくと、本書では1999年の元公安調査官による公安調査庁職員名簿リストをはじめとする内部文書が大量にネットに流出した事件について触れられていないことが気になった(2010年の公安警察の内部資料流出とは別件)。まああれは元職員の恋愛のもつれによる私怨にすぎないのであるが……。

いずれにせよ、この本は今後ウィキリークスを論じる上で踏まえるべき論点が多く掲載されていると思う。

→私の作ったパロディサイト、じぶん告発ウィキサイト「ウィキリークでス。」もどうぞよろしく!

日本人が知らないウィキリークス (新書y)
「日本人が知らないウィキリークス (新書y)」
 [新書]
 著者:小林 恭子,白井 聡,塚越 健司,津田 大介,八田 真行,浜野 喬士,孫崎 享
 出版:洋泉社
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2011年2月12日00:41| 記事内容分類:世界時事ネタ, 書評| by 松永英明
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