学費支援プラットフォーム「studygift」で思う、善意の仕組みと大学の意味

かつてpaperboy&co.を設立し、現在はいろいろな事業を立ち上げる支援者としての活動を中心としている家入一真さん(というのがわたしの認識である)。氏が率いるteam liverty が立ち上げたサイト「学費支援プラットフォーム studygift」がいろいろと議論を呼ぶこととなった。そして間もなく活動中止・全額返金に至った。

studygift表紙

わたしの感想は、結論からいえば「提示された理念・理想は素晴らしい。が、その方法論ならびに直接的なスタッフの動機は是認しがたい」というものである。

わたし自身が大学生のときには極貧生活を送り、結局その結果として中退に至ったという経緯もあり、決して他人事ではなかった。家入さんがそういう学費支援システムを作りたいと表明したときにはわたしもfacebook経由で大賛成の意を伝えた。だが、その結果は非常に残念なものとなってしまった。できる範囲で最大限に協力したいと思っていたわたしが、実際のサイトを見て寄付をしなかったのだ。

今回の件でのいろいろな議論はあるが、その議論には深く立ち入らず、わたし個人の興味と関心に基づいて、以下の点について述べてみたい。1)わたし自身の大学時代の体験。2)studygiftにわたしが寄付しなかった理由。3)理念と目標と動機と方法を別に考える。4)あまり論じられていないこと:「四年制大学→新卒採用」という枠組みを絶対視することへの根本的疑問。

2012年5月28日11:30| 記事内容分類:日本時事ネタ| by 松永英明
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studygiftに関する今までの流れ

studygift全体

具体的な経緯と問題点について「ねとらぼ」5/25記事では特に以下3点が挙げられている。

  • (1)坂口さんの現状について、正しくサポーターに伝えていなかった。すでに「退学」状態にあることが明確に伝わっていなかった。
  • (2)支援金が集まったとしても、坂口さんが大学に復帰できない可能性があった。授業料未納による退学の場合、再入学させるか否かは大学側が決定するので、お金だけで復学できるわけではなかった。
  • (3)100パーセントを超えて支援金が集まった場合の使途説明が不十分だった。

また、studygiftの最初の対象となった大学生と発案者が恋愛関係にあり(同棲していたとも)、しかも大学生自身がteam libertyのメンバーでもあったことなどが問題視された。(※追記:その後の当事者からの発表により、単なるルームシェアであって恋愛関係にはないことが表明された。)

これについての意見として、やまもといちろう氏は主に「学生支援でプライバシーをさらけ出すことになるのは極めて難しい問題があるから慎重にやってほしい」と、いつもの軽妙な口調とは打って変わってまじめなコメントを発表した。一方、佐々木俊尚氏は「社会包摂と個別包摂」という観点から、今回の事例は失敗だったが決して臆することなく、個別包摂の試みは今後も進めるべきだと発言した。

ここまででも、重要点についてはもう充分に論じられていると思う。今回は蛇足というか余談として、自分自身の体験と関心に寄せて少し書いてみたいと思う。

わたし自身の大学時代の体験から

4/6に家入さんが「学費マイクロパトロン」構想をIEIRI.NETで公表したとき、わたしはfacebook経由でこのようにコメントした

高校のときに父親が亡くなったので大学では仕送りゼロで生活費から稼ぐバイトに明け暮れていました。

授業料は全額免除をもらっていたのですが、時給の安いバイトをしていたので生活費を稼ぐために週7日バイトしており、それで月13万程度で辛うじて生活していましたが、授業に出る余力がなくなって、単位が取れず中退しました。(母子家庭用の奨学金は母親が全額生活費に使っていて、自分では一銭も使っていません)

おそらくきちんと卒業できるようにするには、学生の授業料+最低限の生活費を保証した上で、本を買うお金とかをバイトで工面させるのがよいと思います。

家入さんの趣旨には全面賛成です。「自己責任」と突き放す社会より、困っている人がいたら見返りを求めずに助けてあげられる社会の方が絶対にいい。

父親が亡くなったのは高校三年のときである。幸い、保険金が下りたので高校卒業はできた。現役のとき、大学は京大と北大を受けて北大だけ受かり、わたしは中野美代子先生の授業を聞きたくて北大に行きたいと言ったが、遠くに行かせたくない親と「来年もう一度受けさせれば合格大学数を水増しできる」と考えた高校の説得に負け、浪人した。予備校は特待生で一年間無料で行けたが、その間、アルバイトすることもできなかった。

一浪時の受験で京大と阪大に合格し、京大に進むこととなった。この頃から家計は次第に逼迫していた。幸い、授業料全額免除が得られ、母子家庭のための「母子福祉資金貸付金」も貸し付けられることとなった。しかし、他の奨学金はなかった。貸付金は母親の口座に入り、それはすべて一家の生活費として使われた。

大学に入ってアルバイトを始めたが、割のいいバイトはコネのある金持ち学生に全部持って行かれてしまい、大学生が余っている京都では京大生といえども家庭教師のバイトも見つからず、何とか奈良市内の塾講師バイトをやっていた。一年目は自宅から通っていたが、大学まで片道2時間かかり、さすがにこれは成り立たないということで、二年目から同じサークルの先輩と3人で安い長屋を借りて住むことになった。そこから困窮が始まる。本来、わたしの修学費用として受け取ったはずの母子福祉資金貸付金は、母親が全額を自分の生活費に使っていた。仕送りはゼロである(まさに「支援できる近親がいるのに支援を受けられない」状態だ)。

少ない塾講師バイト代だけで食えるわけがない。まもなくして、わたしは1週間、何も食べるものがない、財布には17円しかないという状況に追い込まれた。何かで読んだ戦時中の体験談で「食べるものがないから水をがぶ飲みしてしのいだ」という話を思い出し、水道水で一週間しのいだ。そして1週間目、バイトから帰りに歩いているとき、千本丸太町の居酒屋の「バイト募集まかない付き」の文字を見つけ、思考能力もなくバイトを申し込んだのだった。

その居酒屋バイトの時給は最初630円だった。あまりにも安かったが、とにかく食うためには道はなかった。それからほとんど毎日バイトに入った。夕方5時から12時すぎまで。それでなんとか生活費に追いつくかどうかというところだった。最高で90日間連続で休みなく何らかのバイトをしたこともある。居酒屋なので、最低一日一回は飯が食える。大食いするのでオーナーには睨まれたが、とりあえず飢え死にしなくて済んだ。

仮に自分が女だったら木屋町などで水商売に飛び込んでいただろうな、と当時思っていた。だから、今、キャバ嬢になる女子大学生をわたしは批判できない。

だが、そのバイトのために学校には行けなくなった。バイトで疲れて朝は起きられず、また予習や課題などやる時間はまったくない。きちんと予習もできていないのに授業にだけ出たりできない、という潔癖症でもあった。一般教養の単位はほとんど揃えたが、出席点が重視される英語の単位はことごとく落とした。

ただ、京大には留年制度がなかったので、学年だけは専門に進めだ。バイトのお金だけでは英和の大辞典すら買えなかったし、ゼミの準備などしている時間もなかった。ゼミの先輩が家に電話をかけても、夜は毎日バイトのため留守にしている。いつの間にかゼミの中で「あいつは毎晩遊び回っているんだ」という噂になってしまい、それでさらに研究室に行くのが心理的につらくなった。3年の終わりに「レポートさえ出せば単位をやる」と言われたが、ちゃんとできていないのにそんな形だけ整えて単位をもらうのは失礼だと思ったので、出さなかった。

バイトの時給もなかなか上がらかったが(二年半働いてやめたときで740円だった)、ただ板前さんや他のバイト仲間が気のいい人たちだったので、割のいいバイトを探すという方向にも行かなかった。大学3年から就職活動をするのが当然ということも全然わかっておらず、リクルート社からDMが送られてきていたのも「まだ関係ない話」と放置していたら、4年になって内定が決まったという友人の話を聞いて初めて焦った。

さすがにその状態で母親も危機を感じたのか、「仕送りするからバイトをやめなさい。就職は中退でも雇ってくれるところをコネで探すから」と言ってきた。それで4年の9月に居酒屋バイトをやめたところ、祖父が倒れてその入院費用に金がかかることになり、結局仕送りはなくなった。再び困窮の時期がやってきた。結局、そこで大学を卒業するのは断念せざるを得なくなり、就職の話もどこかに行ってしまった。

そういう経験からすると、今の経済的状況では同じように「お金の問題で大学をやめなければならない」という学生は少なくないだろうと思う。

そこで思うのは、今の議論が「学費支援」となっていることだ。わたしの場合は授業料は全額免除されていた。それでも、大学生活が継続できなかったのだ。大学生活でかかる費用は、少なくともアルバイトしなくても「授業料その他の学費+書籍資料代+生活費」が担保されていなければ、時間的な問題を含めて大学生としての学問はできない。それ以外に趣味や遊びに使いたい分は、週に一、二回や休暇中のバイトで学問に差し障らないように自分で稼ぎなさい――と言うためには、上記の土台はどうしたって必要なのである。

もし「学費支援」ではなく「学生生活を継続できるための支援」というなら、単に学費にとどまらない範囲まで見込んでの支援であってほしい、というのがわたしの経験からの考えである。

studygiftにわたしが寄付しなかった理由

そんな体験をしたのだから、studygiftには期待を寄せていた。同じような苦しみの中で学業を続けたい学生は、少しでも支えたい。

それにわたしはよいと思ったものにはできる範囲で支援したいという理念を持っている。わたしが理想とする経済人は渋沢栄一である。お金は自分のためでなく社会に還元するために稼ぐものである、という理念を当然だと思っている。たとえ穀潰しに無駄遣いされることになろうと、「自分が汗水垂らして働いて稼いだ金を他人に奪われるのは許せない」なんていう考えは絶対に持ちたくないと思っている。むしろ、「いかに多くの穀潰しを養ったか」が社会的成功の基準となるのが(現実からはかなり遠いが)理想だと思っている。

これまでにもワールド・ビジョン・ジャパンやあしなが育英会に寄付してきた。その延長で、こういう試みは大いに応援したいと思っていた。

だが、studygiftの女子学生のページを見た瞬間、わたしは凍った。

「成績が下がったので奨学金がもらえなくなった」とかいう部分ではない。奨学金の成績基準が結構シビアなのはわたしも知っている。たとえそれが写真やSNSで遊んでいたのが理由だとしても、もう一度やり直したいというのならかまわない。ページを見た時点では知らなかった情報だが、たとえ彼女がヨシナガさんと同棲していようと、ヨシナガさんが修学資金を出せないというのならわたしは支援したっていいと思っている(彼女自身がスタッフというのはややひっかかるが、最初のケースというだけなら許容範囲だ)。しかし――

問題はページの右側だった。

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¥5,000の支援をすると

・ニュースレターの配信

授業のことや学生生活のこと、おもしろかったイベントの話など、現役の学生だからわかる今時の学生事情を、私が撮影した写真を交えてメールマガジン形式で伝えます。(週に1回程度の配信を予定)

・サポーター集会

9月と3月の成績発表の時期に合わせてサポーター皆様の前で活動報告を行います。その他、予算がPCの購入や旅行などの臨時予算が発生した場合、私の活動に関する議決などを行います。株主様同士の交流もできる場にしたいと考えています。

¥100,000の特別スポンサー(企業可)として支援をすると

・持ち物広告

私の使用しているMacbookAir、iPhoneなどの背面に御社のロゴやサービス名を貼り付けて宣伝します。これらの機器は学生生活、バイト、その他の活動でも常に持ち歩いて使用しています。

・御社PR活動

私のSNS(Google+、facebook、twitterなど)や普段の活動で全力を使って御社をPRします。普段の生活での御社サンプル品配布などもご相談いただければ実施致します。その他、お気軽にご相談いただければと思います。

いらん、いらん! なんじゃそれは! 支援の結果は「卒業」でいい。そんなもののために5000円を払いたいんじゃない。寄付の対価のサービスなど一切求めていない! あえて求めるとすれば、使った金の明細と、「卒業証書」を確かに手にしたという報告と、「卒業論文を読む権利」、すなわち成果の報告で充分だ。

なんで対価のサービスを提供しようとするのか。そこに大きな疑問を抱いたのだ。yucoさんは、これで伝わるメッセージは「私の性的魅力にお金を出してください」だと言ったが、わたしはそこに限定しない。なぜ「対価へのサービス」を提供してくるのか。

今時の学生事情など別にここから知りたくもない。おもしろかったイベントの話は、一々報告しなくても、自分で楽しんでGoogle+にアップしてくれればいい。サポーターの交流など全然要らない。議決など待たずに勝手に必要なものを買えばいいし、旅行にだって行けばいい。――ただ、元気に学校に通って、いろいろ学んで身につけて、結果として単位も取って、卒業したい人がいるから、金を出そうと思うのだ。つまり「結果」を出したいという人が困っているから支援したいと思ったのだ。それなのに、余計なサービスを提示してくるなんて……。

studygiftは、Campfireじゃないんだよ!

同じく家入さんがプロデュースに関わっているCAMPFIRE(キャンプファイヤー)は「クラウドファンディング」サイトとされている。興味を持った人たちから資金を募り、それでクリエイティブな事業を実現しよう、というサイトで、これは非常に素晴らしいと思う。しかし、ここで用いられている方法論をそのままstudygiftに持ち込んだのは、アウトだった。

Campfireでは、たとえば「5000円支援した人にはこれこれのサービス、10000円支援したら加えてこういうサービス」等々が段階的に設定されている。それはクリエイティブな作品のための募金だから、対価に見合ったサービスを提供するといってファンドを集めるのは自然なことである。だが、studygiftの「学生生活を送って卒業に至る」というプロセスを「クリエイティブな作品」と同列に扱うのは無理だ。そんなもの、切り売りしてほしいなどと思いもしない。もし切り売りしたとしたら、それこそyucoさんに指摘されていたように、プライバシーの切り売りでしかない。

また、これは「奨学金以外の方法で学費を集める挑戦」なのだという。いや、そんなところに「挑戦」のリソースを割かなくていい。君がやるべき挑戦は、「復学後、低迷した成績を元に戻してしっかり卒業する」ことだろう。

対価へのサービスを申し出てきた時点で、これは純粋な学資支援プラットフォームではないと感じた。だからわたしは寄付しなかった。

ワールドビジョン・ジャパンでチャイルドスポンサーになると、活動報告書も届くし、担当となっているチャイルドとの間にクリスマスカードなどのやりとりがあったりする。それがチャイルドから届くのは嬉しい――が、それが目的で寄付しているのではない。チャイルドが元気だから嬉しいのだ。そこを勘違いしないでほしい。

理念と目標と動機と方法を別に考える

家入さんの理念は崇高である。これは絶対に疑えない。まごうかたなき善意である。

目標は、佐々木さんのいう「個別包摂」としての学生支援システムの構築ということになるが、これにも問題はない。

動機は――わたしには善悪をつけることはできない。直接・直近の動機が「ヨシナガさんが彼女のために何とかお金を集めて、復学への道筋をつけたかった」だとしても、それ自体をわたしは批判する立場にない。仮に学資支援を口実に集められたお金がまったく別のことに使われることを最初から意図していたらそれは詐欺だが、それはないと信じる。とすれば、自分たちだけが潤うことではなく多くの学生への道筋をつけるという動機もあるはずだから、そこは結果次第ということになっただろう。

ただし方法は、残念ながら壊滅的にダメだった。サービス提示もダメだったし、実情を正確に伝えていなかったのもアウトだった。個人の「魅力」を集金に使おうとしたのもまずかった。やまもといちろう氏が指摘する「プライバシーを出して募金することの問題」は、根本的にこのシステム設計という方法論に関して、土台から問題があることを示している。

方法がまずかったために、このサイトは失敗した。だが、まずかったのは方法なのであるから、「修学資金に困っている学生を支援したい」という理念や目標は捨てないでほしいと思うし、家入さんも捨てる気はないだろう。じっくり検討し直して、できれば性急にならずにじっくりと練ってみてほしいと思う。常にβ版として改良するのがソーシャルメディアの性質だとしても、今回公開されたものはα版以前のあまりにも未熟なものだったと言わねばならない。

あまり論じられていないこと:「四年制大学→新卒採用」という枠組みを絶対視することへの根本的疑問

ところで、この一連の議論を通じて、わたしは一つ気になることがあった。大学生活を支援するという話の上で、「四年制大学を卒業して、新卒採用される」という枠組みそのものには誰も疑問を抱いておらず、その枠組みだけは誰もが不動の前提としているということだ。

そもそも彼女はなぜ「卒業」したいのか。studygiftのページでは、「そもそもGoogle+は就職活動のために始めたのですが、学費が支払えず退学になるという状態では通常の就職活動を続けることは不可能になってしまい、なんのために大学に入ったんだろう、と感じました」と書かれている。卒業すること、就職活動をすること、つまり新卒採用されることが当然の目標とされている。

でも、それはなぜなのか。いや、その枠組みがなぜ絶対の目標として立ち上がってくるのか。そう言ってしまうと身も蓋もないと言われてしまうかもしれない。studygiftの存在意義自体が失われてしまうと言うかもしれない。

だが、わたしは気になるのだ。大学は、「新卒採用の資格」を得るための「就職資格付与機関」にすぎないのか、という根本的な疑問が湧いてくるのである。「早稲田大学」というブランドの「四大卒資格」がほしい、というのなら、それがなぜ、どうして必要なのか、本当に突き詰めて考えたのか、と問いたい。

わたしは大学や学部や専攻を選ぶとき、「中野美代子先生から西遊記について学びたい」とか「西田龍雄先生から未解読文字について学びたい」とか「人間科学部で人間の行動について学びたい」と思って選んだ。これは学問そのものによる選択だが、それに限るものではない。卒業してどういう仕事につきたいからどういう勉強が必要で、そのためにはこの学校のこの学部でこんなことを学びたい、という思考だっていい。大学が「単位数揃え」以外の意味を持っていますかどうですか、ということを問いたいのだ。

もちろん、単位だけ揃えて、とにかく雇ってくれる会社に入るのが目標です、と割り切る道もある。つまり、大学を「単なる新卒採用のための一ステップ」と割り切る考えがあっても、それ自体は否定しない(だったら「就職予備校大学」としてビジネスに役立つマナーや知識や語学だけを身につけさせるもので充分だと個人的には思う)。だが、「四大卒→新卒採用」というルートだけを絶対条件として盲目的に信奉しているなら、もう一度考え直してほしいと思うのだ。

少なくとも、彼女が「大学で何を学びたいのか」については、文面からはまったく伝わってこなかった。「google+で日本一」も「奨学金打ち切り」もすべて「就職活動」というキーワードにつながっている。「何を勉強したいんですか」への答えがなく、ただ「復学したい」という気持ちしか伝わってこない。写真も大学の学習内容とはまったく関係がなく、だったら写真学校に行けばいいのに、とも思ってしまったりする。

大学を中退したわたしだが、大卒の資格は得た。詳しくは「放送大学を卒業しました。/社会人が大学で生涯学び続けるということ[絵文録ことのは]2011/04/05」に書いたが、放送大学で残りの単位を取得して卒業した。大学時代には授業に出るといっても単位を揃えるという目的が大きすぎた部分もあったが、放送大学では自分自身が本当に興味のあることを「学びたい」という気持ちで学ぶことができた。そして結果的に卒業研究含めて卒業に必要な単位を揃えて「学士」資格を得た。こういうのこそ本当の学問なのだろうなと思ったものである。

20代前半で大学生活を送りながら過ごす数年間は貴重な体験となるだろう。だが、それ以外にも道はある。彼女はすでにヨシナガさんの仕事を手伝うスタッフとして名前を連ねているという。公私ともにヨシナガさんをバックアップして働きながら、放送大学で少しずつ単位を揃えて数年かけて卒業することだってできる。写真について学ぶことを優先させたっていいと思う。

大学というルートを諦めろという話ではない。早稲田ブランドをさっさと諦めろとも言わない。ただ、「学生生活を続けることが就職活動に必要」ということが当然の前提とされていることに疑問を持ったという話である。

今後について

studygiftは仕切り直す必要があるだろうし、今回の件についていろいろ説明する必要もあるだろう。方法論も根本から考え直す必要があると思うが、「苦学生を支援したい」あるいは「困っている人を助けたい」、「困っている人と支援したい人のマッチングを進めたい」ということは応援したいと思う。

ただ、活動一時中止の文章の中で、「従来の “どんな人にいくら渡るのか解りにくい寄付” では無く “この人に共感するから支援” を実現すべく」という部分は、システムの根幹にも関わることだが、慎重に考えるべきところだろう。「具体的にこの人」というのがわかることは、かえって隊長やyucoさんの指摘するようなプライバシー切り売り問題が出てくる。支援したい側からすれば「どんな境遇の人に」いくら渡るのか、でいいと思うし、「この人に共感するから」だと支援される側に格差や競争を生む一因にもなる。

被支援者をオークションにかけるかのようなシステム思想のままでは、再開は不可能だろう。仕組みとしてcampfireやクーポンサイトのようなものは一旦頭から捨てないと、再開しても失敗するのが目に見えている。というのがわたしの考えである。

あと、家入さんは余計な挑発すんな。もったいない。

最後に、本稿は「火中の栗を拾う」ために書いたものではないことを明記しておく。

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2012年5月28日11:30| 記事内容分類:日本時事ネタ| by 松永英明
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