「文章」と一致するもの

国民と文章との距離

 さて、第1【表音文字】第2【表意文字】の状態の諸国は、何ごとも一利一害であるから不便なこともあるだろうが、とにかく、その国民がその国の文章を書くのはあまり難しくないはずだ。

 特に言語をそのまま文章に写し取って差し支えない表音文字の国であれば、若干の文字を学び、その組み立て法を学びさえすれば文章は書けるのである。

 また、第2の支那のような国の民は、第1状態の国民のように容易に文章は書けないのである。しかし、俗語体の文章、すなわち小役人や下っ端書記官のような文章を書くことはそれほど困難ではないらしい。だから、無学者が書く文章は必ずそういうスタイルである。また、学者も、自分の言論を広宣流布したいと願うときや、その説が人々の身体にしみこむほど徹底したいときには、そのスタイルを用いている。

 元来は、支那でも最初から別に俗語体の文章というものがあったわけではないし、後世からいえば「古文」と称する文章でも、その時代の俗な言葉と縁がないわけではない。すでに『史記』などでは方言すら使っているくらいである。しかし、不幸にして支那という国の人民は昔のものを尊ぶことがはなはだしいので、ついに後世に至っては、支那人の理想とする「よい文章」とは、現在の実際の言語の形や語法とは距離のあるものになってしまった。そのために、人民が文章として好む文章は、容易には人々が作ることができないようになっている。

 で、自然と時文だの俗語体の文章だのが生ずるに至ったわけだが、これは文学の観点から見ても、教育の観点から見ても、すべてがあたかも複視のように二重状態になっている。こうして、国民のエネルギーが無駄に費やされてしまうため、その国運は発達しがたい有様となっているのである。

 第4【表音文字と表意文字を両用】の朝鮮のような国は、その国語と密着した文字文章がその国の人によって作り上げられたため、たまたま文字や文章の本当の使命を説明しているといえる。もし、その国の人民がハングルの制作者の恩恵を深く感じるようになれば、その国民は第1に挙げた欧米諸国民と同じ利益を受けることになる。そうでなければ、支那のような状態とも違うとはいえ、やはり相応にエネルギーを無駄づかいしなければならなくなる。

 さて、第3の【表音文字(=仮名文字)と表意文字(=漢字)とを混用】している日本のような国はどうであろうか。不幸にして、このことがそもそも、日本人民に文章は作りにくいと思わせる一因となっているのである。

表音文字と表意文字

 もし文字が音声を示すために便利な表音文字であって、そしてその国の言語と言語運用法が完全に統一ルールのもとにある場合は、文章=言語、言語=文章であって、言語はもちろん心の中で指し示すものを発表するのであるから、文章を書くということは、文字の教育さえ受ければ女性でも子供でもできるはずである。だが、そういうことは学者の頭の中の理想ではありえるかもしれないが、現在の世界ではまだ出現していない。

 また、もし文字が意味を示すために便利な表意文字であって、そしてその国の文字と文字運用法が完全に定まっているときは、文=心、心=文字であって、文字の教育さえ受ければ女性でも子供でもできるはずである。しかし、これもまた理想ではそうかもしれないが、実際にはそうなっていない。

 そこで、現在の世界各国の状態を見ると、

  • 第1:声音をあらわす文字を主として用いている国
  • 第2:意義をあらわす文字を主として用いている国
  • 第3:声音をあらわす文字と意義をあらわす文字とを混用している国
  • 第4:声音をあらわす文字と意義をあらわす文字とを両用している国

などがある。

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【第2部】我が国の文字上の歴史

 なぜ文章を書くことが容易ではないと考えられたか。さあ、この問題を研究・考察しよう。

 前にも言ったとおり、同じ文章を書くにも、善を尽くし、美を尽くしたものを書こうとするのと、まず普通のものを書こうとするのでは、難易度ははるかに違っている。善・美を尽くしたものを得ようとすれば、なるほど、容易でないことは明白なことだ。しかし、普通のものを得ようとすれば、どう考えてもそれほど困難であるべき道理はない。

 しかし、世の中の人がこれを難しいと考える理由がどこからくるかと考えると、まず第一には、我が国の文字上の歴史が、世の中の人に作文は難しいと感じさせる一因となっている。日本の文字の歴史は今なお明々白々ではない。しかし、大体においては、

  • 上古は文字がなかったこと(神代文字についての論議は、今ここではその有無のどちらにも賛成しないとしておいて、とにかくそれが広く民衆に使われていた形跡は認めがたいということにしておく)
  • 支那の文字が輸入されたこと
  • 支那の文字が、意味なく音だけをあらわす表音文字として用いられ、ついにひらがな・カタカナを生ずるに至ったこと
  • 我が国の文字は現在の実際において、象形文字・表音文字が併用され、しかもその文字と言語が関連したり離れたりしていること
  • 言い換えれば、世の文字と人の意識との距離が非常に大きいこと

などは、誰でも肯定することである。これらはすべて、一般人にとって、作文が容易でないと感じられる大きな原因である。

米中ハッカー大戦史まとめ ~ 中国紅客連盟の指導者Lionの独白

 中国のハッカー組織解散 気象庁も攻撃 現地紙報じる(02/08 13:33)という共同通信の記事が報道された。

 8日付中国系香港紙、文匯報によると、米ホワイトハウスの公式サイトなどへの攻撃で知られた中国最大のハッカー組織「中国紅客連盟」が昨年末に解散し、運営サイトも閉鎖した。創設者はネット上で「当時のような興奮が得られなくなった」などと解散理由を説明した。

 今回は、この中国紅客連盟の代表「Lion」と、2001年の「米中ハッカー大戦史」について徹底的にまとめてみた。

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情報源明記:個人ニュースサイトから伝わる美しいウェブ作法

アクセス解析でリンク元をたどって見たところ、STAR LIGHT PARADEという個人ニュースサイトに

メタルバンドのロゴフォント集 (RinRin王国)

ちょっと懐かしく思ってしまいました。

とあった。このメタルバンドのロゴフォント集というのは非常に面白いものだが(メタルファンにとって)、それ以上に興味深いのは「この情報がどこから流れてきたか」だった。STAR LIGHT PARADEはRinRin王国でこのリンクを見つけたという。そこでRinRin王国へ行ってみると、今度は

 メタルバンドのロゴフォント集BRAINSTORMより)

とある。……そこでこの情報の流れをさかのぼってみることにした。そこには、ブログ界/個人ニュースサイト界の見えざる情報の網の目が存在していた。

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ブログという「対等な立場のコミュニティ」に上下関係はそぐわない

 Proving grounds of the mad Internetというブログのmakiさんからいくつかのトラックバックがあった。主に木村剛関連で書いた記事へのトラックバックである。ただ、makiさんの議論はプログラマー的で一見論理的に見えるものだが、整理の仕方に違和感を感じる部分があり、また、わたしが「木村剛が嫌い」だから叩いているかのような誤解があるようなので、反論をしておこう。「ゴーログがよくない」のではなく、「ゴーログの思想が変」と言ってるのである。

 著作権については別記事を書いている途中なので、「Proving grounds of the mad Internet: セマンティック・ウェブの失敗とブログ司会者の必要性」の後半、ブログにおける「司会者」について、まずまとめておきたい。

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Yahoo!ブログは新たな「Y!転載厨」を生むか

 日本最大のポータルサイトYahoo!で、Yahoo!ブログがスタートした。Yahoo!の検索カテゴリと同じカテゴリ分けがあることから、Yahoo!ブログ記事と検索をリンクさせることも視野に入れているのだろうか。

 まあそれはともかくとして、このYahoo!ブログには恐ろしい機能がついている。とりあえずどの記事でもいいので個別の記事を見ていただきたい。タイトル、日付、本文、コメント、トラックバックときて、ページの一番下の方に「この記事のURL」があり、その右端に「傑作」「転載」ボタンがある。

 Yahoo!ブログを開設しているユーザーがログインした状態でこの転載ボタンを押すと、なんとその記事がまるまるすべて自分のブログに転載されてしまうのだ!

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文を作るには楽しんで苦しむべし。嫌がって苦しむなかれ。

 楽しんで苦しめば才能は進む。いやいや苦しめば、苦しみがいは少ない。楽しむということは、実に苦に耐えるからなのである。「好きこそものの上手なれ」ということわざは、簡単な言葉で深遠な道理を見抜いている。好きというのは、すなわち、楽しんでことに当たるということにほかならない。

 わたしの知っている某富豪は、かつてわたしに対して、

「自分のようなものはすでにそれなりの財産をなしたのだが、それでもこつこつと商業に従事している。君は、わたしのことを、金を求めて飽きることのない者のように言うかもしれないが、まったくの偽りなしに言おう。わたしはすでに今もっている富以上の金銭は必要ないので、金銭を得ることはそれほど欲していない。ただ、商業に従事して、利益を生み出すのを見るのが面白くて、老いや死が迫っているというのも忘れてしまっているだけなのだ」

 と語ったことがある。その言葉は決して飾り立てたものではないと信じただけでなく、いかにもそんな調子でことに当たっている人だからこそ、一から立ち上げて百千万の富をも手に入れられたのだと感じた。

 以上、述べてきたところをまとめるならば、「楽しんでことに当たる」というのが成功の秘訣だということになる。どうか、実用的文章を書く人、すなわち一般の人には、楽しんで文章を書いてもらいたい。いやいや書くのではなく書いてもらいたい。作文についての議論を提示する前に、まず熱心に希望することである。

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権利は愛することができる。義務はいとわしい。

 楽しんでことをなすのは、権利を行使するわけである。いやいやながらことに従うのは、義務でやるわけである。一方は自分の花畑を耕すのであり、もう一方は負債を帰そうとするのである。

 権利でやることは苦も快であって、義務でやることはどれも苦である。義務ならとうてい耐えることができないことでも、自分の権利でやるとなれば、人はずいぶんこれに耐えるものである。

 霜・雪の早朝、寒さが厳しいときであっても、狩猟家などはそれを恐れることがない。ふだんは少しの労働にも耐えられぬ御曹司であったとしても、氷を踏み、風をついてかけずり回るのが珍しくも何ともない。

 この道理が表裏をなして、人間の真の勇気の有無を生じ、そしてその勇気の有無の結果が、人々の履歴を光明と暗黒に分けるのが世の常である。

 どの道でも、どの技芸でも、卓越した人は、多くは自分のなすべきことを権利として楽しんでやっている人で、地平線以下の人は、多くは自己のなすことを義務としていやいややっている人である。目を上げて世間を見、歴史をひもといて過去を見たならば、この事実が火の如く明らかであると感じない人はいないだろう。いやしくも世の文明に利益を与えた人は、たいてい、権利として楽しんで、自己のことにあたった人ばかりである。

 富士山や立山や御嶽山に登る者は、みな息も絶え絶えに苦しみながら登るわけだが、夏休みの娯楽として自分の権利として登るがゆえに、ふつうの人も楽しんで登山する。「お前、富士に登れ」「立山に登れ」「御嶽山に登れ」などという命令を受けて、そして義務として登るものとすれば、どれだけの人が登ることができようか! 途中から下山してしまうのはもちろんのこと、第一歩が縮み、筋骨が萎えて、何合目にもいたらぬうちに止まるであろう。

 文明史を飾っている発明家や学者や事務家は、だれもみな厳しい峰を踏破し、艱難を冒した人であって、涙と汗をもって自己の一代記を書きあげたものである。しかし、それはちょうど、富士に登り、御嶽山に登り、立山に登る人が必ず汗をふるい、息を切らせるのと同じである。また、登山者が苦しみながらも自分を奮い立たせるものが心の中にあるように、自ら喜びの思いを抱き、自分の権利として自分のなすべきことをやったのだということは、まったく疑いのないことだ。

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文章は易しいという観念を持つべし

 この幸田露伴の文章を長々と掲載しているのは、ここにいう「普通文章」を「ブログの文章」と置き換えていただければ参考になるのではないかと考えているためです。

 これはみな、文章は難しいものであるという観念が間接に、あるいは直接に一般の世の人に働いて、そして世人が筆をとり、紙に向かうことがやっかいだと思わせた結果である。個人にとっても世にとっても、まずもって打破しなければならないのは、不合理かつ不利益な悪い前提である。

 楽しんでいけば険しい山道でも楽しむことができる。楽しまずに歩くなら、平坦な広い道も人を悩ますばかりだ。

 文章は作ることができるということを信じて、そしてそのことに従えば、一字の推敲、一句の修正もみな楽しいことであるはずで、自ずから苦しいこと、心労を抱いている間であっても楽しい思いはできる。

 その楽しい思いは、やがて精力を充実させ、意識を高め、勇気を持続させ、智慧をもたらし、十分な技量を我知らず発揮させるものである。楽しい思いが大きければ大きいほど、労苦を支える力は増大し、労苦を支える力が増大すればするほど、自分のなすことに対して熱心・忠実となり、自然とその結果は良好となる。もちろん、文章もよくできることとなる。

 これに反して、文章は作りにくいものであるという前提を持っていては、文章を書く場合にどうしても楽しんでやるわけにいかない。いやいやながら試すことになるわけだから、その結果がよくないことは言うまでもない。

 そして、楽しんでやった人がよい結果を得たならば、次にまた文章を書くときによい影響を与える一つの力となり、いやいややった人が悪い結果を得たならば、同様に悪影響を与える悪循環となるわけである。

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