「文章」と一致するもの
第十五回文学フリマ【エ-39】『近代日本医学界抗争史』の危険な中身など #bunfree
学費支援プラットフォーム「studygift」で思う、善意の仕組みと大学の意味
かつてpaperboy&co.を設立し、現在はいろいろな事業を立ち上げる支援者としての活動を中心としている家入一真さん(というのがわたしの認識である)。氏が率いるteam liverty が立ち上げたサイト「学費支援プラットフォーム studygift」がいろいろと議論を呼ぶこととなった。そして間もなく活動中止・全額返金に至った。
わたしの感想は、結論からいえば「提示された理念・理想は素晴らしい。が、その方法論ならびに直接的なスタッフの動機は是認しがたい」というものである。
わたし自身が大学生のときには極貧生活を送り、結局その結果として中退に至ったという経緯もあり、決して他人事ではなかった。家入さんがそういう学費支援システムを作りたいと表明したときにはわたしもfacebook経由で大賛成の意を伝えた。だが、その結果は非常に残念なものとなってしまった。できる範囲で最大限に協力したいと思っていたわたしが、実際のサイトを見て寄付をしなかったのだ。
今回の件でのいろいろな議論はあるが、その議論には深く立ち入らず、わたし個人の興味と関心に基づいて、以下の点について述べてみたい。1)わたし自身の大学時代の体験。2)studygiftにわたしが寄付しなかった理由。3)理念と目標と動機と方法を別に考える。4)あまり論じられていないこと:「四年制大学→新卒採用」という枠組みを絶対視することへの根本的疑問。
大阪維新の会のエセ科学的「家庭教育支援条例(案)」逐条批判
大阪維新の会大阪市会議員団が提出しようとしている「家庭教育支援条例(案)」が大きな批判を浴びている。特に「発達障害は親の育て方が悪いから」というエセ科学理論を前提とした提案であることが批判の的となっている。エセ科学と伝統偽装に裏打ちされた提案は、現実には害悪しかもたらさないだろう。
この条例の思想のバックボーンには、ある一般財団法人が絡んでいることも見逃せないポイントだ。その財団法人の付与する民間資格を支援するとも明記されている。
以下、自由法曹団のサイトで公開された「大阪市・家庭教育支援条例 (案) ――― 全条文 (前文、1~23条)」をもとに、逐条批判していきたい。
京都亀岡暴走事故で3人の犯人の名前を6人分「暴い」たネットの暴走
kyoumoeさんのブログ記事で知ったのだが、京都亀岡暴走事故を起こした3人の「犯人」(運転手と二人の同乗者)の「本名」を「特定」したという情報がネットを駆け抜けていた。ただし、そこで「特定」された「犯人」の名前は6人分あった。
そこでツイッターで以下のようにつぶやいたところ、わたしには珍しくfavされることとなった。
3人の犯人の名前を「ネット」が6人分も暴いた件。少なくとも我々にはたとえ犯人であっても「社会的に抹殺する」権利はないし、ましてや無関係の人を殺人者扱いして責任取れるわけがない。 / “他人の名前を軽々しく書くな、クソ日本人どもが - …” htn.to/STE1ub
— 松永英明@ことのはさん (@kotono8) 4月 25, 2012
「マルモリはアイヌ語」デマはなぜ拡散したのか
芦田愛菜と鈴木福が歌ったドラマ主題歌「マルモのおきて」の歌詞について、「マルマルモリモリとはアイヌ語で「侵略者、侵略者、死を与えよ、死を与えよ」という意味」というデマが昨年師走、2011年12月9日にツイッターに投稿され、拡散されていった。投稿者は直後に「うそです」と記していたが、過去ログをたどりにくいツイッターの仕様も相まって、「マルモリはアイヌ語で怖い意味だ」という情報が広まっていった。
その後、アイヌ語研究者による否定ツイートも流れ、わたしもそれをtogetterでまとめた(「マルマルモリモリはアイヌ語」というデマと、アイヌ語の真実 - Togetter)。こちらも拡散されるようになって一応デマは鎮火した……かのように見えた。しかし、約2か月経った今、再びこのデマがツイッター上で見られるようになっている。
なぜ「マルモリはアイヌ語」デマがこんなに拡散し、一度否定されてもなぜまた再び拡散してしまうのか。それは、ツイッターの仕様やユーザーのリテラシーもさることながら、「幽霊アイヌ語」がいまだに放置されていること、そしてアイヌ文化・アイヌ語への無知、ひいてはアイヌへの「未開人」視があると思われる。
※ブクマコメントで「ラテン語だろ」「ラテン語というデマも2chで」と書かれているが、ラテン語についても最初から本文で書いてある。タイトルだけ読んで反応しないようにお願いしたい。
「ステマ」が成立する理由と、ステマに振り回されない考え方
「ステマ」(ステルスマーケティング)という言葉がネットの一部で話題になっている。宣伝とはわからないように宣伝行為を行なうことであり、ネットでは特に「利害関係のない第三者のクチコミであるかのように偽って、宣伝行為を行なうクチコミサイト上の書き込みやブログ記事」がステマとして批判されている。
ステマが批判されるのは「やらせ」や「サクラ」の延長上にあると見なされるからだろう。そして、わたしもステマを倫理的および戦略的に否定する。
しかし、一方で、なぜステマというものが成り立つのか(あるいはなぜステマだとばれると批判されるのか)、という根本的な部分があまり考察されていないように思う。この点を突き詰めれれば、仮にステマが使われたとしてもそれに振り回されないで済むようになるだろう。
文学フリマでのサークルスペース・ディスプレイ・デザイン
文学フリマは非常にシンプルなイベントである。文学というタイトルではあるが、実際には広く「文章系同人」のイベントととらえるのがよいだろう。いわば文フリ会場は「ロゴススフィア」といえる。
あるいは紙の本の愛好者の集まりでもある。そこで表紙デザインを含めたレイアウト、装丁といったものも「表現」の一環として捉えられている。あえてシンプルにして文字の力を強調する人もいるし、一方でフルカラーの凝った表紙を作ろうとする人もいる。わたしも以前は一色刷だったが、前回・今回はフルカラー表紙にし、今回はついにイラストを描いてもらった。
そんななかで、わたしはおそらく少数派だと思うのだが、与えられた長机の上の空間、すなわちサークルスペースのディスプレイ・デザインについても非常に凝りたくなってしまうのである。本をよりよく見てもらうためにはどうしたらよいか。手に取るためには目に入らなければならない。
おそらくわたしが文フリに参加しているのは、書き手でもあり、編集者でもあり、デザイナーでもあるだけでなく、棚の見せ方に工夫を凝らす書店員としての意識もあるのだと思う。
以下、今回のレイアウトに至る経緯である。
ツイッターの日本語ハッシュタグはなぜ大喜利化するのか(序説)
ツイッターではこれまで、#のあとに半角英数をつけると「ハッシュタグ」として認識され、それをクリックすると同じ話題のツイートが一覧できるようになっていた。たとえばPerfumeの話題なら #prfm というようにある程度決まっている。また、「仮面ライダーOOO」がうっかり#oooを使おうとしたらそれ以前からOpenOffice.orgで使われていたので変更したというような小事件もあった。
2011年7月13日、日本語ハッシュタグが使えるようになった(Twitterブログ: #日本語ハッシュタグ)。ハッシュタグの前後には空白または句読点を入れれば、日本語で書いた「#地震」がハッシュタグとして認識される。
ところが、おそらく誰も想定していなかった事態だろうが、それ以来、日本語ハッシュタグが大喜利ネタになるという現象がみられた。人によってはタイムラインが日本語ハッシュタグ大喜利に埋め尽くされている場合もあるようだ。「#名作のタイトルに団地妻をつけるとロマンポルノになる」など、ついつい大喜利に参加したくなるネタが続出している。
では、なぜ日本語ハッシュタグは大喜利化するのか。それを言語的な観点から考察してみた。ただし、まだ研究のとっかかりであるため、「序説」とした。
【書評】かじいたかし 『僕の妹は漢字が読める』:「自虐的メタラノベ」の金字塔?
書評サイト【Book Japan】に寄稿した書評を、こちらでも掲載しておく。
「災害ユートピア」と「震災ナショナリズム」
「災害時にも沈着冷静で礼儀正しい日本人」――それは実は、全世界の被災地で普遍的に見られる現象だった。
6月12日の文学フリマに合わせて作った個人誌『東日本大震災でわたしも考えた』では、ブログに掲載した記事をさらに拡張・加筆修正を加えただけでなく、いくつかの書き下ろしも入っている。その一つが『「災害ユートピア」と「震災ナショナリズム』」という文章である。
ここでは、その前半部分をそのまま掲載する(一部囲み記事や図版は省略)。