「対馬=韓国領」という妄言はどこから生まれたか

一部の韓国人が「対馬は韓国領である」と主張している。何をどう考えても歴史的に日本の一部であった対馬を、なぜ一部の韓国人は自国領と主張するのか。どういう根拠があってそういうことを言うのか。

よくわからないので、人力検索はてなで質問した後、少々調べてみたところ、一部の韓国人は歴史書のごく一部のみを抜粋して、自分たちに都合のよい歴史をでっち上げていることがわかった。

なお、このように「ごく一部のみの抜粋(あるいは恣意的な要約)」によって、相手が言ってもいないこと、やってもいないことをでっち上げる人がまれにいるので、要注意である。

2008年12月 8日02:19| 記事内容分類:地理・地誌, 日本史| by 松永英明
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疑問解明の経緯

12月2日、人力検索はてなで以下の質問を行なったところ、適切な資料等についての情報が得られた。

「対馬は韓国領だ」という韓国側のトンデモ主張について、その論拠となっている資料を教えてください。韓国の一部トンデモさんたちが「これが証拠だ」として使っている資料に何が書かれているのか、何をもって対馬を韓国領だと思っているのかが知りたいです。

ここで示唆されたとおり、村井章介著中世倭人伝 (岩波新書)を購入し、よく読んでみたところ、一部の韓国人による史実の歪曲がはっきりとわかった。以下、そのまとめである。

李承晩の妄言

竹島問題といい、対馬問題といい、元凶となったのは、1948年~1960年の韓国大統領・李承晩(イ・スンマン/り・しょうばん)であるようだ。

朝鮮日報のこの記事は、一部韓国人の見解をよく表わしているように思われる。

「対馬は、遠い昔から韓国に朝貢を行ってきた韓国の領土だった。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を起こした日本が対馬を武力で占領したが、決死の抵抗を行った(対馬の)義兵がこれを撃退し、義兵の戦蹟碑は対馬の至るところにある。1870年代に対馬を不法占拠した日本は、不法に所有した領土をポツダム宣言によって返還することになったのだから、韓国に返すべきだ」 

 1949年1月7日、大韓民国の初代大統領・李承晩(イ・スンマン)が初の年頭記者会見で語った発言だ。

51年4月27日、韓国政府は米国務省に送った文書の中で、次のように記している。「韓国は、日本が対馬に対するあらゆる権利、呼称、請求を放棄し、これを韓国に返還することを要求する(In view of this fact the Republic of Korea request that Japan specifically renounce all right, title and claim to the island of Tsushima and return it to the Republic of Korea.)」

その年の7月9日にヤン・ユチャン駐米韓国大使が国務省でジョン・ダレス大使と会談し対馬問題に関する韓国の立場を伝えた際、ダレス大使は「対馬は日本が長い間統制しており、今回の平和条約は対馬の現在の地位に影響を及ぼさない」と語り、韓国の要求を拒否

そもそも、韓国に朝貢をしていたのなら韓国領ではなく別の国ではないのか、といった素朴な疑問が生じる(中国に朝貢をしていたのなら中国領、というのであれば、朝鮮は中国領である)。それはともかく、李承晩が対馬を韓国古来の領土であると主張し、その主張はアメリカによって一言で拒否されたというのが歴史上の事実である。

さて、李承晩の言うような「対馬は韓国領だった」という事実はあるのだろうか。

秀吉の朝鮮出兵

李承晩は「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を起こした日本が対馬を武力で占領したが、決死の抵抗を行った(対馬の)義兵がこれを撃退し、義兵の戦蹟碑は対馬の至るところにある」と述べたという。

「文禄・慶長の役」とは、要するに豊臣秀吉による2度の朝鮮出兵である。

しかし、この文章には誤りがある。まず、人民日報による注釈だと思われるが、韓国でいう「壬辰倭乱」とは「文禄の役」であり、後の「慶長の役」は「丁酉倭乱」というのが韓国での呼び名である。

それ以上に、この一文は史実をまったく反映していない。まず、秀吉が九州征伐を行なったとき、対馬の守護大名・宗氏は秀吉に臣従し、本領を安堵されている。宗氏を秀吉が武力攻撃・占拠したという事実はない。

文禄の役は、日本をほぼ統一した秀吉が、当時の中国を支配していた明を征討するという野望を懐き、宗氏に「李氏朝鮮を服属させ、明攻撃の先導をさせよ」と命じたことに始まる。宗氏は朝鮮に対して直接このような要求をすることはできず、婉曲に伝えた。当然、朝鮮は明攻撃の先導などを受け入れることはなかった。そこで、秀吉はまず朝鮮を攻撃することとしたのである。秀吉率いる日本軍は、対馬を攻撃することもなく(もちろん撃退されることもなく)、直接釜山(プサン)に上陸している。

李承晩の言葉は、すべてが史実と食い違った妄言であるといえる。

「対馬島の日」と「応永の外寇」

2005年3月18日、韓国の馬山市議会は「対馬島の日」条例を可決した。これは、対馬島(対馬)が韓国の領土であることを内外に主張し、領有権を確保することが目的であるとされる。

この「対馬島の日」は6月19日とされた。これは1419年の「応永の外寇」と関係がある。朝鮮の沿岸を荒らしていた「倭寇」を撃退するため、李氏朝鮮の太宗は対馬への攻撃を決めた。この将軍・李従茂が馬山浦を出発したのが6月19日なのである。

これをもって、「対馬は朝鮮の属国である」と主張しているのだが、これはおかしい。倭寇は朝鮮の「外」であるがゆえに、外征軍が派遣されたからである。ちなみに「応永の外寇」というのは日本での呼び名で、韓国では「己亥東征」と呼ぶ。

しかも、この「応永の外寇」では、対馬軍が朝鮮軍を撃退しているのである。朝鮮は対馬を自国領にしていないし(そもそもそういう目的でさえなかった)、それどころかこの戦いに朝鮮は敗れているのである。

世宗実録

ただし、この「応永の外寇」の後、厄介な事件が起こった。これについては村井章介著『中世倭人伝』(岩波新書)が詳しいので、少々長くなるが引用したい。この本は『朝鮮王朝実録』を主な典拠としている。

 一四一九年の応永の外寇後、対馬と朝鮮の関係が一時断絶する。こうなるとこまるのは、朝鮮交易をおもなたつきとしている対馬人のほうで、なんとか交易を復興させようとする。そこで「時応界都」または「辛戒道」――これはおなじ人名の音の異なった表記だが、日本語でどんな字があたるかわからない――なる対馬人が、一四二〇年、宗都都熊丸(つつくままる)(のちの貞盛)の使者と称して朝鮮へ渡った。

 時応界都は、「対馬島は土地がやせており、生活がとても困難です」と訴え、「もしわが島を、貴国境内の州郡と同様の一州とし、都都熊丸に印章を賜れば、貴国に臣としての節義を尽くしましょう」と上言した(世宗2閏正己卯)。これを受けた国王世宗は、対馬を慶尚道の所属として、上申はかならず同道観察使を介するよう命じ、"宗氏都都熊丸"という印文の印章を対馬へ送った(閏正壬辰)。

 ところがその後、都都熊丸の意をうけた別の使者仇里安があらわれ、この措置につよく抗議した。

 (※原典引用部分中略、訳文を後記)

 仇里安は、「辛戒道の言はこちらの関知するところではない、対馬が慶尚道に属するなどという説は、史籍をひっくりかえしてみても、長老にたずねてみても、ぜんぜん根拠がわからない」と主張した。朝鮮側は、「そのことは古籍にはっきり書いてあるし、慶尚道の所轄としたのも領土の拡張をもくろんでの措置ではない」と説明したが、仇里安は納得しない。ついに「対馬は日本の辺境だから、対馬を攻めることは日本の本国を攻めることとおなじだ」といいだした。

 この問題は、対馬側の強硬な申し立てに朝鮮側が折れ、対馬の所属はもと通りとなって、決着した。

 しかし「対馬は日本の所属」という命題を、朝鮮側がのんだわけではない。のちに編纂された官撰の地誌『新増東国輿地勝覧』では、対馬島(テマド)は釜山浦(プサンポ)などとともに慶尚道東萊(トンネ)県の項に掲げられており、「即ち日本国対馬州なり、旧我が雞林(慶州キョンジュの雅名)に隷す、未だ何時に倭人の拠る所と為りしかを知らず」と説明されている。また、一五四二年の政府高官の発言に、「日本・対馬は輔車相依の国」とある(中宗37 5乙未)ように、対馬を日本とは別の独自の領域だとする見方は、朝鮮側ではむしろ常識だった。

 倭人の側にもこの見方をとる者がいたことは、辛戒道の発言に明らかだ。かれが宗氏の使者だというのはいつわりで、対馬で朝鮮交易に携わっていた人々のうちで宗氏とはちがう立場を代表する者だと考えられる。かれらにとっては、対馬が日本・朝鮮のどちらに属するか、といったことより、朝鮮半島との交易を維持することこそが大事だった。

 どうやら1420年の時応界都/辛戒道なる人物が諸悪の根源のように思われる。しかし、この男が「もしわが島を、貴国境内の州郡と同様の一州とし」と申し出ている以上、それ以前には対馬は実態として「貴国境内の州郡と同様の一州」ではなかったということになる。

 上記引用部分で省略したのは、『朝鮮王朝実録』の「世宗34己亥」からの原典引用部分(漢文の書き下し文)である。そのままでは多くの人には読みづらいと思われるので、私が現代語訳してみる。

礼曹(※外務次官)は問うた。「前の書には『対馬島が慶尚道に隷するという言葉は、これを史籍にもとめ、これを父老に訊いてみたが、実に拠るところがない』とある。本島が慶尚道に隷するのは、古籍に明らかだ。さらに、あなたの島の使者である辛戒道も『本島はもと大国牧馬の地である』という。ゆえに、今より前、あなたの島について、ことがあればみな慶尚道観察使に報告させたのは、このためである。朝廷はあなたの土地を争おうと欲するのではない」と。仇里安は言った。「本島が慶尚道に属するなどということは、わたしも知らないことであるのに、戒道ひとりがどうして知り得るのであろうか。必ずこれ妄言であろう。仮に本島を慶尚道に属させたとしても、もし民を安んぜなければ、必ず天子の威厳と教えに外れることになるだろう。もともと属していないけれども、もしこれを鎮撫するのに恩をもっておこなえば、誰があえて服さないことがあろうか。対馬島は日本の辺境である。対馬島を攻めるのは、つまり本国を攻めることである。……」と。

 ほんのごく一時期、対馬と朝鮮との交易を必要とした辛戒道の「妄言」によって、対馬島が慶尚道に属するということになった時期は確かにあった。しかし、それはたちまち覆されたのである。(「妄言」という言葉は原文にあるとおりである)

もし、このようなごくわずかの時期に「対馬が朝鮮領とされた」ことをもって「対馬は韓国領」だというのであれば、韓国併合以後35年にわたって韓国が「日本領」であったという事実も無視すべきではない、ということになる。韓国併合のときにも、韓国の一進会が「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文を提出した。日韓の対等な合併を望んだ韓国人もいたというのは事実である。しかし、この一進会は韓国の大多数から糾弾された。当たり前だ。この歴史的事実を否定する韓国人はいないだろう。

交易を優先して対馬を慶尚道の所属にすることを求めた辛戒道と、それを打ち消した仇里安(すなわち対馬の宗氏の意向である)の関係は、日本との合併を求めた一進会と他の韓国人の関係とイコールであると思われる。違うのは、「対馬の朝鮮領土化」はあっという間に終わり、朝鮮側文献に細々と記されるだけに終わったのに対し、韓国併合は35年間の実効支配があったという点だけである。

そして、韓国は日本固有の領土ではない。ならば、対馬は朝鮮の領土などではありえない。もし対馬が朝鮮領だといえるのであれば、韓国も台湾も日本領である(これは、韓国も台湾も日本領だ、と言いたいのではなく、論理的に「対馬は韓国領」というのがおかしいと言いたいのである)。

『中世倭人伝』を詳細に読めば、倭寇の被害に対して、その本拠地ともいえる対馬が外国であるがゆえになかなか撲滅できない、と朝鮮側が述べている資料も多々存在することがわかる。倭寇は内政ではなく、明らかに外部からの侵略であった。

ごく一部は正しくても全体は間違っている

「対馬島は韓国の領土」 全国地図が登場 | Japanese JoongAngIlbo | 中央日報の記事中には、このような記載がみられる。

世宗実録には「対馬という島は慶尚道鶏林(キョンサンド・ケリム、現在の慶州)に属し、本来、わが国の領土」と記録されている。金正浩(キム・ジョンホ)の「大東輿地図」や壬辰倭乱(文禄の役)当時に日本が制作した「八道総図」など多くの地図にも、対馬島は'朝鮮'領土と表示されている。

「対馬という島は慶尚道鶏林に属し、本来、わが国の領土」という記述は、『中世倭人伝』の記述にもとづけば、『世宗実録』ではなく『新増東国輿地勝覧』が出典ではないかと思われるが、いずれにしても、この記述を根拠とするのは歴史学的にも正しい態度とは言えないだろう(それなら、古事記や日本書紀で、日本でも最初に生まれた島の一つとして対馬が書かれていることを無視すべきではない)。

朝鮮地図である「八道総図」には確かに対馬が描かれている。しかし、対馬のところに「朝鮮」の領土と明記されているわけではない。lunakko's fotolife - -20070509 - 八道総図に八道総図の画像がアップされているが、これを見れば朝鮮領のみが地図に描かれているのではなく、北部の明国領土も描かれている。国境が明記されているわけではないので、この地図をもって「対馬は朝鮮領」と主張するのは不可能である。

対馬は日本、済州島は朝鮮

『中世倭人伝』では、済州島と対馬の類似と対比についても述べられている。

「朝鮮にとって対馬と済州島はおなじような性格をもつ辺境だった。」「こうしたペアリングが可能だったのは、第一に、済州島が対馬とともに倭人の活動の本場だったからだ。」「また第二に、済州島が対馬や北方辺境と同様、夷狄の地だったからだ。」「対馬と済州島を類似した地ととらえる見方は、国家に反逆しようとする人々の側にも享有されていた。」――朝鮮から見れば、ともに辺境の異民族の地として、済州島と対馬は似たようなものと思われていた。どちらもマージナルマンの住む境界領域であることは間違いなかった。

 しかし、済州島は朝鮮、対馬は日本という明確な線引きも認識されていたのだ。再び『中世倭人伝』から引用する。

 だがいっぽうで、領土という観点からは、対馬は日本で済州島は朝鮮だ、というちがいも認識されており、両者がおなじようにあいまいで危険な境界領域になってしまってはこまる、という見方もあった。一四七八年の工曹判書梁誠之の上書はいう。

 (※実録からの原文書き下し引用部分略)

 さる秋に倭船が済州の州境に来泊したので、倭語を解する通事を遣わし、後日に備えた、と聞く。しかし済州と対馬がともに海上にあって、東西あい望む位置にありながら、言語を異にしているのはむしろ好ましいことだ。もし言語が通じてしまうと、サルに木のぼりを教えるようなもので、いずれ文字にするのもおぞましいような変事が起きるだろう。だから倭通事を済州に送って、近倭の人、つまり済州人に倭語を習得させるような愚は避けるべきだ。いまならまだまにあうから、急ぎ早馬を送って通事を連れ戻してほしい……。

 対馬と済州島をふくんで、〈国境をまたぐ地域〉が倭語を共通語として生成してくる可能性が存在し、その危険性を朝鮮国家がするどく関知していたことが知られる。

点をもって全体を主張するあやまり

韓国の一部の主張は、対馬の長い歴史のごく一部の「点」のみを注視し、それを根拠として「対馬は朝鮮の古来の領土だった」というのだが、その前にもそのような事実はなかったし、その後も(秀吉の時代や江戸時代を含めて)まったくそのような事実はなかった。「古書にこう書かれている」という韓国の一部の主張は、嘘ではないかもしれないが、それをもって全体であるかのように主張するならば完全な嘘となる。

このような巧妙な嘘には要注意である。

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この話題について、週刊メルマガ『「場所の記憶」「都市の歴史」で社会を読み解く――松永英明のゲニウス・ロキ探索』では、12月8日号で対馬というマージナル(境界的)な場所について考察を加えます。ぜひご購読ください。

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2008年12月 8日02:19| 記事内容分類:地理・地誌, 日本史| by 松永英明
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歴史的なことより、対馬市民がどの国に帰属するかを判断することだと思います。
対馬市民が日本国ではなく韓国に帰属したいと思えば韓国領だと思います。

では、対馬市民が日本国から独立したいと言ったらどうなるのか?それはそれで、民族自決の原則により独立が認められなければならないかもしれません。

非常に興味深いサイトであり勉強になります。
マスコミに洗脳された温室育ちの馬鹿な日本人への道しるべとなるサイトです。

このようなサイトを、英語で書かなければなりません。
彼ら韓国人は、日本人より遥かに英語が得意であり、
世界中で反日活動を行っています!

不当に財を築きあげて日本全国の駅前に土地を所有する在日朝鮮人の土地を没収せよ!

>ほほほ君よ

在日朝鮮人たちに参政権を与えてはいけないのは、あんたのようなことをいう人間がいるからだよ。

Ethnic Korean should return all of their enourmous fortune and prime lands located very near major stations across Japan which
they illegally stole from Japanese after world war II!

It is the steadfast fact that 30% of Japanese gangstar(Yakuza) is ethnic korean, although their total population consists of only around 1% in Japan. How can we get along with them?

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