大僧正天海1-01

出典: 閾ペディアことのは

大僧正天海』第一編 修学 第一章 瑞夢受胎 の全文現代語訳である(松永英明訳)。本文中、(※)での注記ならびに脚注は訳注である。

大僧正天海 第一編 修学

第一章 瑞夢受胎

 伝教・弘法・慈覚・智証の四大師が徽号を追賜された後[1]、720有余年にしてはじめて第五位の聖人に追薦され、厳粛な崇飾の典を加えて諡号宣下の名誉を受けた緇林曠古の(※仏教界でも前例のない)偉材、東叡山寛永寺の開山、日光山輪王寺の開基、山科毘沙門堂門跡の中興、仙波無量寿寺喜多院三興の祖、慈眼大師、前大僧正、法印、大和尚位、南光坊天海その人の行状をたずねる。

 陸奥国大沼郡(今、岩代国に属す)高田の郷というところ[2]は、奥州の二の宮とあがめられる伊佐須美大明神(今、国弊中社に列す)[3]鎮座の勝境である。会津黒川の府城(今、若松市と称す)(※会津若松市)の西南二里十二町(※9km)を隔て、越後国から下野国に通じる街道の要衝に当たる。河沼郡坂下駅(※福島県河沼郡会津坂下町:「ばんげ」と読む)より二里三十二町余(※11km)、当郡市野駅(※会津美里町内)へ二里一町半(8km)の駅舎である。市街は東西二町十四間(※250m)、南北十五町十四間(※1.6km)の間につらなる。南端より数えて上丁・中丁・下丁の三区に分かれ、中央に横町あり、横町の東に社家町あり、中丁の西一丁に新町あって、人馬昼夜に去来し、百貨朝夕に集散する。西は丘陵が起伏するが、東は宮川の河流があって、舟楫の便さえ乏しくないので、郡中の殷賑ことごとくここに集まるかと疑われる。

 この中丁に練塀を高くめぐらせた一構えの巨館がある。館後は直ちに道樹山の境域に接し、自ずから市塵を避けている。館の主人は船木兵部少輔景光(かげみつ)といい、古くからここに住む。城の主将は幾たびか代をかえたが、船木氏には興亡なく、世々郷人に重んぜられて、今の兵部少輔の代となった。ことに兵部少輔景光は、高田の城主・蘆名盛常の娘の婿となって国守の系族に連なったため、世の聞こえ・人の帰服も前とは異なって、声望広く一郡にわたった。

船木氏に伝わる系譜によれば、神功皇后が三韓を征したとき、御船の材を求められた。ここに筑前国岡田という里に、その長さ二十丈余、十かかえに余る楠木があったのを、民間の長吏・曹珍という者が伐って献上した。皇后は深くその功を嘉し、曹珍に船木の姓を賜った。これより子孫繁盛し、世々船木を家苗とし、曹珍を太祖とするよしを記している。さらに平次輝祐、庄司輝議、前司頼輝などの名を列記し、頼輝より十四伝して兵部少輔景光に至る譜を示している。このこと、記紀ともに伝えないだけでなく、宿禰・連などの姓氏もつまびらかではないので、軽々しく信ずることはできない。また、松平正之の会津風土記には、単に「姓は船木氏」とのみ記録され、新編会津風土記第七十四巻には、父を船木道光というよしに記されている。

 高田城[4]は、いずれのとき、何人の築いたものかは不詳である。今の城砦は駅の西一町あまりの地点を占めて、分内はそれほど広いというわけではないが、堀深くめぐらし、壁を固く結って、櫓・井楼などの構え、要害は堅牢である。会津の守護・蘆名修理大夫平盛高は会津・仙道を切りなびかせた余勢をもって、しばしばこの城に迫ったけれども、城将・小俣宮内少輔某がよく防いで抜きがたく、しきりにその隙をうかがっていた。会津の家人・塩田某の家の童で、以前から高田の家士某と慇懃を通じ、深く言い交わした者がいたので、盛高が一策を授けて、高田の家士を誘わせた。あくまで色におぼれたのか、家士は一議に及ばず了承した。「主人は常に川で逍遙することを好むので、近日必ず出遊することがあるだろう。そのとき、備えのないのに乗じて、不意に襲って滅ぼしたまえ」とことの手筈を整えた。文明十一年(1479年)5月27日(旧事雑考に十二年のこととする)、小俣の一族は宮川に船を浮かべて、城を出て遊んでいるということを、急使を馳せて告げてきた。盛高は小躍りしてうち喜び、「多年の宿望今ぞ達しぬ。漁の興の尽きぬ間に、疾く押し寄せて踏み破れや」とみずから真っ先に馬を駆り、鞭・鐙を合わせて、直押しに押し寄せた。小俣の一族がそれと知って急いで船を岸辺に寄せたときには、城はすでに落ち、その身も多勢の敵に取り囲まれ、ついに乱軍のうちにことごとく討ち死にして、小俣氏はまったく滅亡した。盛高は舎弟・盛安をここに置いて高田を治めさせたが、大永六年(1526年)には盛安が嫡子・盛常に城を譲って退隠し、今日に至っていた。

塔寺村八幡宮長帳、文明十一年五月二十七日の条に、「高田城おち候。上総守、下野守、右馬之助殿、四郎殿うちヽ。黒川のさいかち安芸殿、御しやうがい被致候。」とあるもの、この戦いのことであろう。列記の人名は所伝を得られない。その中で「西梅枝安芸」とあるのは蘆名の家の将であって、会津蘆名家中分限帳にその名が見られる。

 船木兵部少輔景光は、その国守の女婿となって威福ともに加わり、家声を挙げた喜びに満ちながら、蘆名氏を迎えて後、すでに二十年あまりを過ごした。我が身も次第に老境に迫ったが、いまだ家を継がせるべき一子なく、妻の色香も年ごとに衰えていくのを見て不安に思っていたが、子がないことを嘆く胸の苦しみは妻のほうがいや増していた。ある日、夫・景光に向かって「我が身が添いまいらせてから御情けになれてあまたの年を経ました。日を数えれば、四十路の坂がはや一両年に迫りながら、子宝一人も挙げ得ざることこそ、憂いの中の悲しみです。かつては側室をお勧めしましたが、義を立てて承けられませんでした。こうして互いに老い朽ちれば、誰が船木の家を立てるべきでしょうか。子がない身はあっても詮なきものです。今はこの身を犠牲に献げて、一子を神・仏に祈りまいらせたい、と固く思い定めております。どうかお許しください」と涙ながらにかき口説いた。健気な妻の決意に、景光もすぐに心を決めて、「言われたことは道理である。子がないのは御身の罪のみならず、吾にも同じ罪があろう。御身が神仏に生命をささげて請願を凝らすのであれば、吾もともに請願し、夫婦心を一つにして、至誠を表わし、丹精をぬきんで、不二に懇祷いたせば、神仏が感応しないはずがない。いざ祈願を始めなさい。さあさあ、吾も請願を起こそう」と、快く同意した。

 これより精進潔斎に身を清め、夫・景光は当所の伊佐須美大明神に懇志を運んで、朝夕の参詣を怠ることがなかった。この社は人の始めの御祖、イザナギ・イザナミ二柱の大神の宮であるので、ここにも沼矛のしたたりを下して、稚児一人授けたまえと祈った。孺人(妻)の蘆名氏の虔祷の姿は、柔弱な婦人の行為とも思えなかったという。

 初秋の日が明神ヶ岳に入ろうとするころ、身に生絹の浄衣をまとい、黒髪の根を麻で束ね、後ろに長く振り下げたまま、伊佐須美大明神の前にぬかづいて、一心に祈請をこらしていたが、やがて御手洗の神泉について清冽な井華を汲み、浄新な水桶にたたえて、頭上高くかかげ、おもむろに歩みを運び、宮川の河原に出て立つ。ときに夕日はまったく没して、夕霧が深く立ち上り、おぼろに白く見える流れには天の星の光が浮かんで、虫の声も聞こえるようになる。妻は顔を東に向け、遙かに博士ヶ岳の頂に向かい、頭に満ちたたえた水桶を掲げ、足には磊々とした真砂を踏み、静止不動の姿勢を崩さず、今宵七月二十三夜の月の昇るのを待った。

 酉から子の下刻に至るまで(※午後5時ごろから午前1寺ごろまで)水に臨んで立ちつくせば、気力も体力も疲れて、ややもすれば姿勢が崩れ、頭上の水がひっくり返ろうとすることもあった。妻はその都度、自分の心にむち打って、熱心な誓願を起こし、目を閉じ、口をふさいで、神助仏護を黙祷した。倦怠を去り、疲労を退け、心身すでに定まれば、正しく至善にとどまることができ、頭上の水も静かになった。こうして苦をしのぎ、難を冒して、子の刻二分の皓月がさやかに峡谷にさし昇るのを拝して、清光を器中の誓水に映し、欣然として家に帰り、これに百倍の浄水を加えて、清く身体を沐浴した。沐浴が終わって、さらに新たな浄衣を着、丑の刻(※午前二時)近い深夜に、伊佐須美大明神の奥の院である文殊堂に参籠しようと一人歩みを運んだ。

 奥の院文殊堂というのは、暦応二年(※1339年)円済という者がここに勧請し、傍らに一宇の精舎を建立して、これを護国山清龍寺と号し[5]、世々別当職を勤めてきた。本尊文殊菩薩は獅子座に乗った長さ二尺九寸(※88cm)の木像で、仏師・運慶の一刀三礼の霊仏の聞こえ高く、この地が蘆名氏の所領に帰してからは、国守盛高・城主盛安ともに崇信ひとかたならず、奉納の鐘が今も伝わっている。その鐘銘には、

奥州会津大沼郡高田 伊佐須美大明神社 奥院内之鐘 大旦那平盛高 大旦那平盛安 本願権少僧都知鏡 別当清龍寺 永正第十二天丁丑卯月十九日

の文字が刻んであって、帰教の志の薄くないことを表わしている。そこで妻も日頃からこの菩薩を信仰して、吉凶禍福みなその冥護を仰いできた。今、受胎の誓願を発するに至っても、ひたすらこの菩薩の利生を仰いで、このように捨身の行を修したのである。

 宝前の灯明もすでにしめり、あるかないかの常夜灯のみ、夢のように瞬くころ、妻は礼盤に身を伏せて、再三稽首膜拝した後、満身の至誠をそそいで「帰命頂礼、本尊文殊師利大菩薩、慈悲哀愍の利益をもって衆生を済度したまうために、跡をこの土に垂れさせられ、あまねく群盲を救わせたまう。伏して乞い、仰ぎ願わくは、妾の余りの生命に代えて、福徳智慧の一男子を授けたまえ。南無文殊師利大菩薩、南無文殊師利大菩薩」と祈請するほか、いささかの雑念も交えなかった。このように懇念をこらしつつ、三更から五更に至るまで(※午後11時~午前5時)はだもたゆまず、目もまじろがず、尊前に端坐合掌して、心ゆくまで正心を披瀝し、黎明告げる鶏の声にうながされて、静かに下向についたのだが、今宵を発願の初夜として、これより月の二十三夜を迎えるごとに、かたどおりに行を修して、たゆまず祈願をこらしたのだった。

 精神ひとたび至れば成せないことがあろうか。船木夫妻の信心も至誠天に通じて神仏感応を催したのだろうか。発願から三年を経て天文四年(※1535年)四月二十三夜のことであったが、妻はかたどおりに垢離をとって文殊堂に参籠し、あかつき近くに家に帰った。すると心身の疲労が常にまして、どうしても耐え難かったので、しばらく疲れを休ませようとして、身をふしどに横たえつつ、暁の夢を見た。ときに虚空はるかに音楽起こり、異香馥郁と薫じてきて、五彩の光明が我が身を包むとみるや否や、天華を雨ふらすことしきりにして、その一片の妙華が翩翻として飛び来たり、どうしたのであろうか、仰ぎ拝する妻の口にさっと舞い込むように見え、妻は誤って一口に飲み下した。あまりの奇瑞に驚き騒いで、アッと叫んだ自分の声に驚きさめれば、これこそ暁の一夢であった。

東源和尚の慈眼大師伝記には、「夫人深く大願を企て、儲子を月天子に乞い奉る。云々。叮嚀に祝願す、その意にいわく、帰命月天子、本地大勢至云々」として、受胎を月天子に祈ったこととしてから、以下の所伝はみなこれに倣っているが、いぶかしい。俗伝にも、慈眼大師を文殊の化身とするように、母氏の一子を祈請したのは、清龍寺の文殊堂であったことは明らかな事実である。元禄十三年(※1700年)六月、一品公弁法親王、大師誕生仏であるゆえにこれを東叡山に迎え奉り、吉祥閣上に安置された一時から考えても、疑惑を差し挟むべき余地のないものと思われる。ましてや、清龍寺には宮より新たに文殊堂を寄せられ、なお金穀を進めて供養の資としたのである。

 このときより身体常と異なり、月水はたと止まったので、内々に医師を招いて診せたところ、まさしく懐胎の徴であった。船木一家は枯木に花の咲いたような歓喜と祝賀に忙殺されたが、これもひとえに神徳仏恩の致すところと、報恩の崇敬至らざるところはなかった。この利生であろうか、妻は体に少しの悩みもなく、臨月に先立つこと一月、すなわち九か月にして分娩の気をきたし、産みの苦痛も感じず、安々と産の紐を解いて産み挙げたのは、玉のような男児であった。このとき、天文五年(※1536年)丙申歳正月元旦であった。

 一家一族狂喜して生誕を祝し、七夜にあたって幼子を兵太郎と呼び、掌の珠・挿頭の花と愛で慈しんで育てた。妻は三年でまた受胎し、第二の男子を産んだ。次男の藤内である。

参照・注記

東源記、諶泰記、両大師縁起。本朝高僧伝。東国高僧伝。門跡伝。会津風土記。新編会津風土記。史徹墨宝考証。塔寺村八幡宮長帳。会津四家合考。会津旧事羅考。慈眼大師年譜。野史、奥羽旧事。天台霞標。文殊楼記。船木家系譜。大日本地名辞書。仏家人名辞書。歴史地理。日光山列祖伝。

  1. 伝教大師=最澄(貞観八年=866に諡号)。弘法大師=空海(延喜二十一年=921に諡号)。慈覚大師=円仁(貞観八年=866に大師号)。智証大師=円珍。
  2. 高田郷:福島県大沼郡会津美里町高田
  3. 伊佐須美神社は、福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377に現存する。
  4. 岩代 高田城(会津美里町)/登城記|タクジローの日本全国お城めぐりによれば、高田城は福島県大沼郡会津美里町字布才地、高田第一中学校の北にある。
  5. 高田文殊院清龍寺は、福島県大沼郡会津美里町字文珠西甲3611に現存する。

大僧正天海


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