大僧正天海1-04

出典: 閾ペディアことのは

大僧正天海』第一編 修学 第四章 慈母嬰疾 の全文現代語訳である(松永英明訳)。本文中、(※)での注記ならびに脚注は訳注である。

大僧正天海 第一編 修学

第四章 慈母嬰疾

弘治二年(1556)の秋、琵琶湖畔の明窓を辞した随風は、杖を千年の旧都に引き、南都の廃址を尋ねた(※奈良訪問)。鳳闕(宮城)は鋤きかえされて水田と化し、殿舎は耕されて田畑と変じ、洛陽の跡も今は訪ねるよしもない。しかし、山陵は今なお周囲の池も涸れず、七朝の帝業を護っている(※奈良時代七代の天皇)。七大寺(※東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)は東西二京に甍を連ねて、七十余年の大事業をとどめている。国家鎮護の霊仏、天下富饒の法城は、依然として遺徳を垂れていた。

随風は大和の霊場を巡拝して、ただ歴史の造詣が浅いことを悔いて、成重という学者について日本書紀の購読を始めた。成重の祖先はもともと我が朝の人ではなく、震旦(※中国)の林和靖の遠い子孫であって、いつのころから帰化したのか、南都に住して、世々我が国の古典の授業を家道としていた。単に皇国の歴史だけでなく、漢土の典籍にも通暁していたので、随風は大きな利益を得た。

この間、錫を興福寺に掛けて、旨と法相、三論を修めた。師家とあおいだ空実僧都は法相宗の巨匠として名前が世間にとどろいていたので、随風は最も細心にその教えを聴いたのだった。

ある日、唯識論の講座に参して、「心所心王、以識為主」というところに来たとき、随風は心に疑いを生じた。「心所は識をもって主とするとのこと、その意味はそうでありましょうが、どうして心王である識をもって主とするのでしょうか」と質問したのだ。

僧都は静かに教えて言った。「このこと、伝に二説ある。一つにいう。心は意識の中、心をまさに主とすべし。(八識=眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識・阿頼耶識=の)第八は心であるがゆえに、今はしばらく境に対して論じ、識をもって主とするのである。もう一つの説ではこうである。心はただ自体であって因果の位に通じている。識は因の用であってただ強勝である。今、強勝の心に約して、主の意味を明らかにする。ゆえに唯識と名づけて、唯心と名づけない、という」。

随風はこの名答を得て、退いて同窓の学侶に語った。「天台を習う者は唯識にくらく、法相を習う者は円理に迷う。ゆえにその語脈を得る者が合すれば、両方とも美となる。その宗趣を失う者が離れれば、両方ともやぶれる。今日の法座においてこの理をさとったのは、ひとえに明師のたまものである」として、大いに師の教えが手厚いことを喜んだ。

このように一心に他の宗派を学ぶ折から、遠く故郷の空より便りがあって、随風はいきなり書物を投げ捨てることとなった。

永禄元年(1558)五月初旬のことであった。随風は引き続いて快くない夢におそわれ、心の海の風波は穏やかでなかった。不空羂索観世音に祈願して、毎日南円堂に赴いていた。天子が世を治める法則がおろそかになって数百年、武将の権威は地に落ちて、四方の豪傑が雲のように起こり、天下が麻のごとく乱れた中にあっても、仏徳はいまだまったく衰えず、遠近から詣でてくる信徒は補陀落(※観音の霊場)の南の岸に押し寄せ、念彼観音力の声は終日絶えることがない。随風もつつしんで普門品一巻を誦し、しずかに帰ろうとするところに、はからずも船木家の家来にめぐりあった。

あまりに思いがけない対面だったので、随風はしきりに胸騒ぎがして、あわただしく来意を訪ねた。その家来は思いがけず会えた喜びを述べて、懐中から藤内景信の手紙を取り出し、これを随風に差し出したまま、うつむいて涙をぬぐった。随風はますます心穏やかならず、手早く封を開いて見たところ、家信は他のことを語らず、「母上の御身に病があり、老体を冒しておりますこと、はなはだ軽くなく、寸時も心に油断なし。恩を捨てて無為に入られた兄上でありますが、生前今一度のご対面、母上の切なるお望みであります」とのこと、走り書きで寄せたものであった。なるほど、最近の夜ごとの凶夢はまさにこの暗示かとわかった。

父母は生々の根本であり、たとえ捨身の仏弟子であっても瞬時も恩を忘れるべきではあるまい。道に進めば進むほど、遠く離れれば離れるほど、出世の恩を深く感じ、愛育の慈顔が濃く映じて、怠ろうとする心にむち打たれ、すさんだ行を戒められるのは、人の子の常情である。他人が執着というならば言えばいい、一日も早く学行を成じ、一寺一院に住するならば、せめては慈母の満足を得られるだろうと凶までいそしんできた。その母上が病んでいるのに、何を安閑と学窓に親しめようか。南都の修行も今はこれまで、と随風は心を決めて、ゆくゆく家来の話を聞きながら、直ちに学窓に取って返して、師の僧都にいとまを申し出た。

師の許しはすぐに出た。荷物は手早くまとめられた。随風は心が少しも安まらず、省覲の思いを万里の東に寄せつつも、その日のうちに般若坂を越えた。ほのかに送る東大寺の鐘の声を後にして、しきりに歩みを急ぐうちに、大和路から外れて山城の木津の里で日が暮れた。

ここから暁に月が出ているうちに出発し、宵には星が見えるようになってから宿り、夜中に峠を越え、渡し船で眠り、明けても暮れても急いだが、戦国のならいで思わざるところで関が閉ざされ、今朝まで通じていた道がふさがるなど、不測の差し障りが多かった。随風の傷心は言うまでもないが、辛うじて険しい道を進み、その月下旬、十年ぶりに駒ヶ岳の山光をあおぎ、宮川の水明に沿って、故郷高田に帰ってきた。

わらじの紐を解く間も惜しんで、随風は急いで母堂の病床に参入した。慈母は病に苦しみながらも、なお生きながらえていた。日頃焦思したかいあって、生前に慈顔を見られたのを喜ぶと同時に、憔悴した母上の様子を見ると激切の至情が心を衝き、悲慕涕泣に身を漂わせて、座ってもいられないようになってしまった。やがて自ら心を励まして、「お顔を不予の枕席に見ることができたのは、夢にも思わなかったこと。見るところ、お疲れもそれほどではなく、まだ病が膏肓に入ったとも思えない。薬餌につとめれば快癒も遠くないでしょう」などと慰めて、自らの手で薬湯を進めた。

手甲・脚絆を脱いだだけで衣帯も解かず、寝食も安んぜず、随風は慈母の枕元に座ったまま、少しも左右を離れずに、薬餌を薦め、足腰をさすり、看病で自分の身が痩せるのも気にしなかった。折しも三伏の極暑の時期で、無病の人でも耐え難い頃であったが、看護の至誠が神に通じたのか、これほどの重病もやや軽快して、身体の安静を得た。こうして順調に進めば、仲秋のころには病の床も払えるだろうと人は望みをかけたのだった。しかし、灯火が滅するときかえって明るくなるという例に漏れず、母堂葦名氏の中快もまさに来たろうとする急転の前兆だった。

齢すでに六十に余って、身に大病を得た母堂は、この中快にあたって、言うべきことは言い、託すべきことは託し、心中一片の曇りもなく、皓々として名月に対するようであったが、今や時が至ったのだろうか。七月二十三夜、子二つの空晴れ渡って、今宵の月光が博士山の頂を離れて上がり、金蛇のごとき光を宮川の清瀬に走らせたとき、母堂は静かに随風の膝に抱かれつつ、深く差し入る月光にうちむかい、合掌持念したまま、苦しみもなく、悩みもなく、有漏の夢今覚めて、清い無漏の眠りに入ったように、穢土の諸縁をここに断じて、清浄楽土の新縁を結び、希有の往生を遂げたのだった。

随風は、涅槃経を口誦しつつ、清きしとねを準備させて、母の亡骸を横たえた。その終焉は神々しく、往生は歴々たるものであったので、周囲の人たちはみな信心を肝に銘じ、深く仏徳を賛嘆して、しばらく悲痛慟哭の声さえも聞こえなかった。随風は沙門であるゆえに哀しみを制し、愁いを忍んで、最後の孝養を尽くすため、死後の取り置きを人手にかけず、我が手一つで取り扱って、きまりどおりに弔葬の儀を整えた。弁誉舜幸法印を導師に招き、式を正し礼をつつしみ、龍興寺の先祖代々の墓に葬った。中陰の追善供養も、善を尽くし美を尽くして、すべて至らないところはなかった。

仏の教えは、孝をもって初めとするという。梵網経には「孝を名づけて戒となす」といい、戒経には「父母・師僧・三宝に孝順なのは、至道の法に孝順であるということだ」といい、疏には「この孝行を行ない、敬順して違することがない。これを持戒と名づける」という。そのため、世尊はその父を喪ったとき、自らその棺を負って葬儀を行なった。随風の孝順の至徳、まさに仏弟子の戒行に恥じぬものであるというべきだろう。

参照・注記

日光山列祖伝、東源記、諶泰記、大師縁起、本朝高僧伝、興福寺世代

  • 注:仏教で孝を重視するというのは、中国思想の影響を受けた見方である。


大僧正天海


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