大僧正天海1-02

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大僧正天海』第一編 修学 第二章 龍興入室 の全文現代語訳である(松永英明訳)。本文中、(※)での注記ならびに脚注は訳注である。

大僧正天海 第一編 修学

第二章 龍興入室

 天感によって思わず二人の子を得た船木夫妻は、愛子の養育にも日が足りぬ思いで、春の日が暮れるのを惜しみ、秋の日が明けるのを嘆いて、一心に成長を祈っていた。次男・藤内は世の常の子供と同じく普通に育ったが、長男・兵太郎はことごとに不思議な性格を示し、この生育に父母の心労は浅くなかった。

 たとえば、肉味の食べ物をたいへん嫌って、一滴も口にすることがなかった。強いてこれをふくませると、すぐにはき出した。四十路に近い初産であって、母は乳の量が少なかったので、人の勧めに従って、鯉の濃漿(鯉こく)というものを飲んだところ、たちまち乳房が張り、乳汁の量が非常に多くなった。母は心中喜んで、さっそく乳房をふくませたところ、兵太郎は泣きむずかって、ことごとく乳汁をはき出した。始めは何故かわからなかったが、その後よく考えてみたところ、母が魚・鳥の肉をとったときはいつも乳房をくわえようとせず、強いてこれを与えれば、一滴も喉を通さず、そのまま嘔吐することがわかった。さては文殊菩薩に祈り乞うて授かった赤ん坊なので、食に不浄を忌むのであろうか。そうであれば、精進して哺育しなければならないということで、これ以降、母親は一切の肉味を断って口にせず、清浄な穀物・蔬菜の類のみを採り、潔斎して哺育したところ、その後は乳汁を吐くことなく、たいへん健やかに成長した。

 一波がおさまれば一波が生じる。嘔吐の憂いがやんでしまって、今は健やかに生育していたが、歳五つ、六つのころから、朝夕必ず長泣きする癖が出た。日頃愛する玩具を出してさまざまに慰めたが、手にはもとより目にも触れない。また、好む食物を与えて、機嫌を取り繕おうとしても、さらに見向くこともせず、ただうめくように泣き続け、どうしても泣きやまない。父母はもとより子守の者たちはただ手をこまねいて泣きやむのを待つだけであった。だからといって、怒り狂うのでもなく、叫んで騒ぐのでもなく、ただ延々と泣き続けるだけなので、疳の虫などとも思われず、虫のためとも信じられず、心に神仏の加護を祈って、早くやむようにと念ずるのみであった。    ある日のことであった。兵太郎は例によって奥の部屋に寝転がって長泣きを始めたが、いつものことなので、今は家人もなだめることなく、泣きたいままに泣かせていた。すると門前を通った雲水の僧がこの声を聞いて案内を請うた。行脚僧が言うには、「今この館の門前を通ろうとしたところ、内からたいへんありがたいお経の声が聞こえました。さても世には奇特な人もいるものだ、このような有徳の人と語り合ったならば修行となるだろうと思っておりますので、お目にかからせていただきたい」とひたすら面会を乞うのである。母親はいぶかしくおもって、「それは門違いではありませんか。我が家ではありません」という。「いやいや、奥から漏れるお声こそ、まさに読誦でございます」といって、僧はなかなか認めない。「あれは子供が泣きむずかっているのです。嘘だと思うならこちらへいらっしゃい」とその僧を奥に連れて行った。僧は兵太郎を一見して、ていねいに礼拝する。「この子は生まれながらの比丘でありましょう。人には泣きむずかると聞こえるかもしれませんが、我らの耳にはまさに法華経の文を誦していらっしゃると聞こえます。察するところ、この子が成人した後は、世にも得難い善知識とあおがれるでしょう。疑って後悔されることがございませんよう」といって、三度礼拝して帰って行った。

 母親はただ夢心地で、それ以上に考えることもできず、夫の景光にも物語って、托鉢の僧が言ったことを不思議だとだけ思っていた。それからほどなく、兵部少輔景光は、年来の老病が身に積もって、兵太郎十一歳の歳についに亡くなった。龍興寺の先祖代々の墓に葬って、後世をねんごろに弔っていたところ、兵太郎は常に念珠を手から離さず、ひまさえあれば位牌の前に端坐して、知る限りの経文を独呪していた。深く人生の無常を観じたのだろうか、母親に向かって、「家を弟の藤内に譲り、わたしは龍興寺の徒弟となって出家を遂げたい」と申し出た。母親はかねてから予期していたことであったが、今さら胸騒ぎするのを覚えて、とにかくの応答もためらわれた。

 幼い子供の道心は日に高くなり、厭離の念が次第にさかんになっていった。もはや、とどめてもその思いを断つことはできまい。生まれる前からの約束とも思われる節もないわけではないので、ようやく納得して、ついに手ずから兵太郎を連れて、龍興寺[1]を訪ねた。

 この龍興寺というのは、高田では、伊佐須美大明神に次ぐ古刹であった。仁明天皇の嘉祥年中(※848~851年)、慈覚大師が開いたものであって、道樹山と号し、四教円融の道場であった。文治五年(※1189年)、陸奥守・藤原泰衡が誅されてから後は[2]、伽藍の修造も思うようにいかず、風に荒れ、雨に朽ちて、これほど名高い道場もおのずから荒廃にゆだねられていた。ここに二百余年を経て、見るかげもなく荒れ果てた。南朝の正平二十四年・北朝の応安二年(※1369年)、京都の戦塵を逃れ出てこの陸奥にさまよってきた恵雲という法師がいた。たまたま荷物を道樹山におろして龍興の廃院に住んだ。法師はついに名山を復興させる志を起こし、行を修め、徳を積み、鋭意勧進を催した。雨露風雪に屋根破れ軒も朽ちて、狐や兎のすみかとなってきた龍興寺も、一堂興り、一閣成って、伽藍の壮大さも以前以上のものとなり、顕教・密教の教風も以前に戻り、中興の功績は完全なものとなった。それから百七十年あまり、十二代伝わって、今の竪者法印・舜幸弁誉に至ったのであった。

 母親は兵太郎を連れて舜幸法印に託して、改めて徒弟とした。舜幸法印は大旦那に請われて仕方なく受けたのだが、世の辛酸にも触れたことがなく、いわば東西さえも区別できない幼い子供は、発心がいかに堅固であっても、竹の頭・木の屑のように言われる仏道修行が苦しく耐え難いのを知れば、後悔しないとも限らない。捨身に勤める仏弟子の修行が普通ではないことを語って、ともかく再考熟慮を促した。しかし、子供の道心はきわめてかたく、容易に最初の一念をひるがえすことはできなかった。固く乞いつづける。母親もまた言葉を尽くす。「受胎の請願を文殊菩薩にこらし、その利生によって得た子ですから、前世から沙門となるべき仏縁を有するのです。願いのほかに次男をももうけて、家の血筋は絶えずにすみました。ですから、この子の切なる願いにまかせ、出家得度させるのは、一つには故・兵部少輔の菩提のため、二つには文殊菩薩へ報恩の一端となります」などと語り、切に望んでやまなかった。法印も退ける言葉を知らず、親子の誠意に動かされて、ついに快く受けることとした。ときに天文十五年(※1546年)、兵太郎が生まれて十一歳の秋であった。

第一図 随風自署の抄本(日光天海蔵所蔵)

 すでに兵太郎は、年来の本懐がここに成就して、仏に仕える身となった。師の坊主である舜幸法印はいうまでもなく、上首の高弟・亮慶に兄事することは最も丁寧であった。影が形に従うようについて回って教えを受け、少しの時間をも惜しむ様子は末頼もしく思われた。はじめ、舜幸法印は俗体のまま手元に置いて、内典・外典をも学ばせ、手習いをもさせながら、僧侶の乏しいたたずまいを目撃させ、それでもなお仏弟子となる志が固ければ、そのときは髪を剃って出家の身としようと思っていた。しかし、あまりにもかいがいしく立ち回り、心を細やかにして僧行にならうことを志し、また寸暇を惜しんで経文の習熟にいそしむなど、心身ことごとく如来に献げているのが認められた。教法の天才をむなしくすることが恐ろしくなり、やがて、兵太郎の請いを容れて、その年のうちに得度の式を挙げ、愛らしい童髪を剃って、可憐な少沙弥とした。九拝して剃髪の師恩に感謝する兵太郎の肩に、墨染めの法衣を投げかけて、名を改めて随風と称し、号を無心と呼ばせた。

 沙弥・随風は、以前からの願望が完全にかなって、今は仏陀に仕える身となった。難行苦行を分として、寒暑も問わず、春秋も論ぜず、心身を顕教・密教の習学に傾倒した。幼時からの賢さのせいだろうか、また生まれながらの素質によるものだろうか、勤行の座に座っては声明の音階も正しく人々を導き、聴講の席に連なっては、一を聴いて十を知る聡明さを示した。それだけでなく、教法の真の意味を体得し、難問に合うごとに必ず鋭利な知性を示して、同宿を驚かすこともしばしばであった。こうして、道樹山での在学四年に及んだので、ほぼその師の教えに通暁し、今は自修自得を許すべき進境を示すに至った。

 そのため、舜幸法印は、いたく随風の秀才・穎悟を推奨するあまり、今に至るまでかつて師弟としての態度で臨んだことはなく、常々、船木家の小公子として接していた。随風は常にものたりぬ気持ちでかえって心苦しかったので、自らは深く謙遜して、朝夕に敬虔な至誠をあらわし、恩師に対する末弟子の礼をもって鞠躬如として(慎みかしこまって)仕えたのだった。しかし、舜幸法印は、一度も痛棒を加えず、弟子として接しないだけでなく、時には弱冠にも満たない雛僧を上首の座につかせることさえあった。随風の心はますます落ち着かなかった。ひそかに考えるに、釈尊一代の法門は八万四千以上あり、わが国に伝わる教派は十宗に及ぶ。これを学び、行じて、一代の知識となろうとするには、いたずらに一か所にとどまって、ただ師の教えにのみ仰ぐべきではない。名声を聞き、令徳を慕って、千里の道も通しとせず、法座に参って道を問うこそ、沙門たる身の行であろう。頭陀・行脚は修道者が必ずふむべき常道である。棒喝警策(悟りのためにむち打つこと)は仏弟子が必ず受けるべき励ましだ。しかし、恩師の慈愛になれて、樹下石上の苦も知らず、三十棒の痛みも覚えず、いたずらに年歯のみ長ずれば、ついにまことの道を知らずして朽ち果てるだろう。いやしくも円頂緇衣(剃髪した墨染めの衣)の出家として、仏の道を知らずして老いていくのはなんと残念なことだろう。私は14歳となった。朝夕のことでは人の手をわずらわさず、進退も思いのままになる。今から恩師の膝下を辞して、遠く遊び、広く尋ね、学を修め、行を練り、光明を一閻浮提(人間世界)に宣布して、四つの恩を報ずることを心がけよう。これはやがて仏恩の報尽となる。これはやがて国恩の報効となる。これはやがて父母の恩の報謝となる。これはやがて師恩の報徳となる。

 随風は決然として意を決した。まず母に請うてその許しを受けた。次いで、行装をととのえた。最後に師の許しを請うた。その言動はいささかのよどみもなく、明々白々として、明るい月に向かうようであったので、愛惜に執せられた舜幸法印も、とどめる言葉を知らず、ようやくこれを了承した。

 随風はここに笈を負い、錫をふるって、うやうやしく同宿に別れを告げた。同宿らは異口同音に、「あっぱれ沙門の標幟だ。その古風のたいへん高いのを見れば、天台を中興させる力が、双肩の笈、片手の錫にこもっているようだ」とさかんに行途を祝したのであった。

参照・注記

東源記、諶泰記、大師縁起、日光山列祖伝、本朝高僧伝、歴史地理、会津風土記、新風土記、天正日記附考、日光慈眼堂天海蔵手抄本

  1. 龍興寺:福島県大沼郡会津美里町字龍興寺北。Google Maps 龍興寺
  2. 藤原泰衡:源義経を衣川館に庇護したが、頼朝の圧力に抗しきれず、義経を殺した。1189年頼朝に攻められ、逃走中に部下に殺害された。

大僧正天海