「言語」と一致するもの

[バ科事典]日本について外国人はこう思っている!(かもしれない)

 百科事典は英語でEncyclopedia、その語源はギリシア語のεγκύκλιος παιδεία(エンキュクリオス・パイデイア=教育の輪の中→一般教育)で、これはκύκλος(キュクロス=円)に由来するεγκύκλιος(エンキュクリオス=円形)と、παιδεία(パイデイア=教育)の組み合わせである。

 で、ネット上の百科事典というとWikipediaが有名だが、そのパロディ版、うそばっかりの百科事典(バ科事典とでも命名すべきか)Uncyclopediaというのがあることを日記ちょうで知った。このJapanの項目がキチガイじみていてやや面白いので訳してみた。

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「漢城ではなく首爾と書け」ソウル市長の発表に中国人・華僑は当惑

 1月19日、ソウル市長がソウルの中国語表記「漢城(ハンチョン=中/ハンソン=韓)」を「首爾(首爾)(ショウル)」に変更するよう求めると発表した。

 これについて、中国側の反応は冷ややかなようである。中には韓国の民族主義を指摘する声もあり、一筋縄ではいきそうにない。中国のニュースや掲示板などでの代表的な反応を集めてみた。

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国民と文章との距離

 さて、第1【表音文字】第2【表意文字】の状態の諸国は、何ごとも一利一害であるから不便なこともあるだろうが、とにかく、その国民がその国の文章を書くのはあまり難しくないはずだ。

 特に言語をそのまま文章に写し取って差し支えない表音文字の国であれば、若干の文字を学び、その組み立て法を学びさえすれば文章は書けるのである。

 また、第2の支那のような国の民は、第1状態の国民のように容易に文章は書けないのである。しかし、俗語体の文章、すなわち小役人や下っ端書記官のような文章を書くことはそれほど困難ではないらしい。だから、無学者が書く文章は必ずそういうスタイルである。また、学者も、自分の言論を広宣流布したいと願うときや、その説が人々の身体にしみこむほど徹底したいときには、そのスタイルを用いている。

 元来は、支那でも最初から別に俗語体の文章というものがあったわけではないし、後世からいえば「古文」と称する文章でも、その時代の俗な言葉と縁がないわけではない。すでに『史記』などでは方言すら使っているくらいである。しかし、不幸にして支那という国の人民は昔のものを尊ぶことがはなはだしいので、ついに後世に至っては、支那人の理想とする「よい文章」とは、現在の実際の言語の形や語法とは距離のあるものになってしまった。そのために、人民が文章として好む文章は、容易には人々が作ることができないようになっている。

 で、自然と時文だの俗語体の文章だのが生ずるに至ったわけだが、これは文学の観点から見ても、教育の観点から見ても、すべてがあたかも複視のように二重状態になっている。こうして、国民のエネルギーが無駄に費やされてしまうため、その国運は発達しがたい有様となっているのである。

 第4【表音文字と表意文字を両用】の朝鮮のような国は、その国語と密着した文字文章がその国の人によって作り上げられたため、たまたま文字や文章の本当の使命を説明しているといえる。もし、その国の人民がハングルの制作者の恩恵を深く感じるようになれば、その国民は第1に挙げた欧米諸国民と同じ利益を受けることになる。そうでなければ、支那のような状態とも違うとはいえ、やはり相応にエネルギーを無駄づかいしなければならなくなる。

 さて、第3の【表音文字(=仮名文字)と表意文字(=漢字)とを混用】している日本のような国はどうであろうか。不幸にして、このことがそもそも、日本人民に文章は作りにくいと思わせる一因となっているのである。

表音文字と表意文字

 もし文字が音声を示すために便利な表音文字であって、そしてその国の言語と言語運用法が完全に統一ルールのもとにある場合は、文章=言語、言語=文章であって、言語はもちろん心の中で指し示すものを発表するのであるから、文章を書くということは、文字の教育さえ受ければ女性でも子供でもできるはずである。だが、そういうことは学者の頭の中の理想ではありえるかもしれないが、現在の世界ではまだ出現していない。

 また、もし文字が意味を示すために便利な表意文字であって、そしてその国の文字と文字運用法が完全に定まっているときは、文=心、心=文字であって、文字の教育さえ受ければ女性でも子供でもできるはずである。しかし、これもまた理想ではそうかもしれないが、実際にはそうなっていない。

 そこで、現在の世界各国の状態を見ると、

  • 第1:声音をあらわす文字を主として用いている国
  • 第2:意義をあらわす文字を主として用いている国
  • 第3:声音をあらわす文字と意義をあらわす文字とを混用している国
  • 第4:声音をあらわす文字と意義をあらわす文字とを両用している国

などがある。

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【第2部】我が国の文字上の歴史

 なぜ文章を書くことが容易ではないと考えられたか。さあ、この問題を研究・考察しよう。

 前にも言ったとおり、同じ文章を書くにも、善を尽くし、美を尽くしたものを書こうとするのと、まず普通のものを書こうとするのでは、難易度ははるかに違っている。善・美を尽くしたものを得ようとすれば、なるほど、容易でないことは明白なことだ。しかし、普通のものを得ようとすれば、どう考えてもそれほど困難であるべき道理はない。

 しかし、世の中の人がこれを難しいと考える理由がどこからくるかと考えると、まず第一には、我が国の文字上の歴史が、世の中の人に作文は難しいと感じさせる一因となっている。日本の文字の歴史は今なお明々白々ではない。しかし、大体においては、

  • 上古は文字がなかったこと(神代文字についての論議は、今ここではその有無のどちらにも賛成しないとしておいて、とにかくそれが広く民衆に使われていた形跡は認めがたいということにしておく)
  • 支那の文字が輸入されたこと
  • 支那の文字が、意味なく音だけをあらわす表音文字として用いられ、ついにひらがな・カタカナを生ずるに至ったこと
  • 我が国の文字は現在の実際において、象形文字・表音文字が併用され、しかもその文字と言語が関連したり離れたりしていること
  • 言い換えれば、世の文字と人の意識との距離が非常に大きいこと

などは、誰でも肯定することである。これらはすべて、一般人にとって、作文が容易でないと感じられる大きな原因である。

Deutsche WelleのBOBs=ベストブログ 国際ウェブログ大賞2004

 ドイツのラジオ局ドイチェ・ヴェレ(Deutsche Welle)が世界各国のブロガーやジャーナリスト、メディア学者を審査員として選んだ「ドイチェ・ヴェレ・ベストブログ国際ウェブログ大賞2004(The BOBs - BEST OF THE BLOGS - Deutsche Welle International Weblog Awards 2004)」が発表された。

 ブログはマスコミに対抗するメディアになるか否かとか言ってる人は、とりあえずここで受賞したジャーナリスティック・ブログをチェックしてからものを言ってほしいものである。

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木村剛氏の「ブロガーとしての資質」を問う――自分のものとして取り込みたがる人々

 「週刊!木村剛」で活躍中の金融サービスコンサルタント木村剛氏は、「ブログをマスコミに対抗するカウンターメディアにする」という野望を抱いてブログ啓蒙活動を続けている。しかし、その主張に私は違和感を感じてきた。対マスコミ姿勢については木村剛の「マスメディアへの対抗意識」は時代錯誤。中越地震マスゴミ批判記事を検証するに書いたとおりである。

 そして、昨日公開したエントリー「博客」と呼ばないで!中国ブロガー「博客」呼称騒動――博客中国 vs CNBlogにおいて、一部の中国ブロガーから激しく攻撃されている方興東氏の状況を見て、木村剛氏の問題点が私の中で整理された。

 私は、木村剛氏に対してマスコミで挙げられた金融政策上の疑惑などについては興味がないし、経済にはうといのでまるでわからない。木村氏の疑惑について紹介するトラックバックがあったが、読んでも事実関係がわからないのでスルーしていた。また、下記のような切込隊長と木村剛氏のやりとりについても、その本質は経済関係の疑惑なので、つっこめない。

 しかし、木村剛氏のブロガーとしての資質について、私はツッコミを入れずにはいられない。

  • 安倍ぬすみ主義・ジャイアニズム――必要以上に長い転載(リンクの価値を損なう)
  • 恣意的謎めき系――反対意見へはリンクも引用もしない(一方的な意見)
  • 負け犬の遠吠え――マスコミに対する激しい敵愾心と的はずれな批判
  • 読者をバカにしたプロパガンダ――自信と余裕のない書き手

 大きくまとめるとこの4点において、私は木村剛氏はリーディング・ブロガーたる資格を失っていると考える。以下、詳細。

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「よろしかったですか」の歴史と心理的背景を探ってみる

 ファミレスやコンビニでよく使われる「ファミ・コン語」の中でも特に違和感のある「よろしかったですか」について、ウェブ上で見られる情報をまとめてみた。特に「北海道方言起源説」を中心に、どのような心理でそれが受け入れられるに至ったか、そしてなぜ反発を受けているのかについて考えてみたい(今回の前半は引用中心だが、後半には私の考えがまとめてある)。結論は「店員の側の押しつけ敬語」ではないかということである。

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世の人はどうして実用的文章を作るのが簡単ではないと思うのか

 しかし、世間の実態を見ると、世の中の人はよくこういうことを言っている。

「どうも文章を書くのは難しい、難儀なことである。厄介である。おれは文章家でないから到底書けない」

という言葉であるが、こういう言葉はしばしば私が耳にする。

 なるほど、世の中に容易なことは一つもない。実に一本の直線を紙の上に書くのであっても、また決して容易なことではないのであるから、ましてや文章を書くという複雑なことが容易であろうわけはないのである。

 しかし、文章が文章を書くのは難しいだろうが、実用的文章を普通の人が書くのはそう難しいことではないはずである。なぜかといえば、演説家が演説をするのは難しいかもしれないが、普通の談話を普通の人がするのはそう難しいこともないのとちょうど同じことである。また、俳優が農夫に扮して農夫を演ずるのは――つまり俳優が技を示すのは難しいかもしれないが、本当の農夫が農夫の動作をするのが難しいという道理はない。

 今、ここにある人が言葉を発して何ごとかを語ろうとするとき、その語られるべき内容はすでに存在しているのである。で、その存在している実質をそのまま明らかにするのは、たとえば風呂敷包みの中のミカンをただその風呂敷を取りのけて示すようなもので、何の難しいことはないのである。ふだん我々が「鉛筆を買ってこい」とか「郵便を出してこい」とかいう言葉を発する場合に、その言葉を発するのは実に容易なわけで、それはそれらの言語を発する前に、すでに「鉛筆を買ってきてもらいたい」とか「郵便を出してほしい」というものが存在していたので、言葉を発したのは実はただ一枚の風呂敷を取り除く程度の労力と同じようなものであった。これが容易なのは実にわかりきったことである。

 文章は、我が国においても他の国においても、文章=話し言葉とはいいがたいものであるが、しかし大体において文章と話し言葉とは、その性質・作用・体形や人間との関わりにおいてほとんど近いものであり、場合によっては「文章も話し言葉も同じものだ」と言っても差し支えないものである。

 いずれにしても、話し言葉と遠い距離があるわけではない文章というものの中でも、特に実用的なのに至っては、やはり「鉛筆を買ってこい」「郵便を出してこい」などという言葉とあまり違わないものであると同時に、これを書くこともまた実に容易なのである。

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文章本来の約束

 記事文は同じ記事文でも、実用的な記事文と美術的な記事文が同じようなものであるべき道理はない。美術的な記事文ならば、それが美術的であるということ、すなわち美術的であらねばならないということが第一に主要な約束である。実用的な記事文ならば、それが実際の役に立ちえるものであらねばならないということが第一に主要な約束である。その文章の本来の約束ということは実に大切なことである。

 奈良の吉野は桜の花の美観で有名な場所であると同時に、材木の産地としても有名である。今、もし林業者が同地を視察してその記事の文章を作るとすれば、それはすなわち実用的文章で、そしてその文章はもちろんのこと、林業者にとって何らかの参考になったり、利益になったりすることを目指しているのである。で、その一事がその文章本来の約束となっているのである。だからその文章は、事実を離れないように、浮いた言葉のないように、明らかに、わずらわしくなく、漏れのないようにできさえすれば、それで十分であり、上々であるのである。

 しかし、もしその文章の中に、支那風の悪く難しい形容の言葉や、日本古代の生ぬるい死語などがたくさん埋め込まれていたり、あるいはまた「白髪三千丈」などというような誇張はなはだしい文字が使ってあったり、「これはこれはとばかり花の芳野山」などというように人の感覚に訴えようとする気の利いた詩的言語が多く使われていたりするとするならば、それは面白くない、よろしくないと言わなければならない。なぜといえば、それらのことは、その文章本来の約束で求められている明瞭さ、確実さ、詳細さというものをいくらか損なう一方、不要な別の意味を付け加える傾向があるからだ。

 また、今もしある詩人が芳野の花を見てその記事文を書いて、まだ知らない人に吉野の美しい景色を想像させようとしたとすれば、その文章の本来の約束は、優美さだとか崇高さだとか、何らかの美を有するということである。で、その文章には、何の谷に桜の樹が体積にして何百何十本あるだの、何の谷に杉の根回り何尺以上のが何百何十本あるだのといった記事や、どこそこの地質は輝石安山岩だの凝灰岩だの水成岩だのという記事なども、必ずしも必要ではない。挿入するのは任意だが、林業者の視察のメモや、地質調査の報告書のようなものになってもらってはむしろ不本意なのであって、要するに何でもよいからいわゆる美的感覚を提供するものであってほしいのである。どんな文体で、どんなことを書いてもよいのだが、要するに読者に美感を感じてもらえればそれでいいので、そうでないならそれはよろしくないのである。失敗したのである。

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