「きっこの日記」五年分すべてを通読してわかった。きっこの正体(きっこの日記検証1)

去年末から話題のサイトといえば「きっこの日記」をおいて他にはないだろう。そう、MAXファンのヘアメークの日記でありながら、「構造計算偽造」問題に絡んで「スクープ」ともいえるネタを公開したことでネット内の関心を集め、ジャーナリストにも「こいつ何者だ?」と言わせ、さらには民主党議員まで引っ張り出してきたっていうスゴいサイトだ。中には「これはスクープを公開するために匿名の架空の日記で出しておいて、それをマッチポンプ的に報道するための偽装サイト。きっこというのは複数の可能性もある」なんていう陰謀論まで飛び出す始末。でも、おれのポリシーは「原典に当たれ」ってのはご存じの方も多いだろう。きっこ=横山希美子さんのことを知りたかったら、きっこの日記を全部読むことからはじめなきゃ、と思って開いてみたら、実に5年分もあって、しかもここ2年くらいは毎日5000字くらいの文字量があるというわけで、本当に大変な作業になってしまった今日この頃、皆さん、やっぱり松永はカネにもならんのにアホなことばっかりするなあとか思ってませんか?(笑)

2006年1月31日13:25| 記事内容分類:ウェブ社会| by 松永英明
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「きっこ」という人自体が疑惑

‥‥そんなワケで、今回はきっこの日記のスタイルがすっかりうつってしまってるんだけど(笑)うつってきたのはスタイルだけじゃなくて、口調というか文体までちょっとまねしてるのだった。こういう文体模写を「パスティーシュ」といって、清水義範が得意なわけだけど、そういう話ばかりしてると本題に入れないし、またどっかで「松永のダラダラした長文はうざい」って言い出しそうなので、この話はこのへんにしとく。

‥‥そんなワケで、「きっこの日記」にはいろんな疑惑が提出されている。その典型例は、以下の二つのリンクをたどればよくわかると思う。

そこで想像したのが、きっこ氏=ジャーナリスト説である。

新聞やニュースサイトなどからの記事の転用が多いのは事実ではあるとはいえ、可成りの短時間で纏めサイト並みに情報を収集し、一つのエントリとして玄人はだしの文章が書ける、しかもニュースの度に出てくる知り合いや情報をリークしてくれる人脈の広さがあるのが「全て事実」であるのなら、フリーのヘアメイクが面白可笑しく時事を書いているように装って実はジャーナリストが文章を書いているのではないか、と想像してしまうのだ。

某新聞社のインタビューの中に、「一部では、きっこさんのことを『男性だ』『複数だ』『雑誌記者だ』など、色々と憶測している人たちもいるようですが、どう思いますか?」と言う質問があったので、噴き出してしまいました。

ネット上では「きっこ氏=MAX(マックス)のメンバーの1人」という奇怪な説までもが流れている状態である。

 あと、時系列的には前後するけど、この記事の前振りとして以前公開しておいた「ドラッジときっこの対比」について、はてなブックマークで「相違点は匿名性。ここをクリアできない限り確実にソースロンダリングに活用されるので類似点だけを強調すんのはどうよ?」と書いた人もいて、つまり、「きっこは匿名」と思ってる人もいる。

 でも、きっこがどういう人なのかってことを知るには、まずきっこの日記を読まないと話にならないんじゃないの?と思ったのが、今回の「きっこの日記」通読をやってみようと考えた理由だ。自分自身はきっこという人の主義主張をどうこう批評しようというような「批判的ジャーナリズム」ではなく、純粋に「この人ってどんな人?」っていう好奇心だけで読んだつもり。あと、ここで書いてることは、読み通しての感想だから、読む前の印象とはだいぶ違ってたことを強調しとく。言い換えれば、ここの読者の方が「そんなことは信じられない」と言ったとしても、自分としては「じゃああんたも通読してからものを言いなよ」としか返せなくなってしまう。

「きっこ」は実在の人物

 さて、「きっこの日記」の前身は「れいなの日記」。「Rooms」っていうサービス上で公開されていた携帯向けMAXファンサイト「れいなの楽屋」の中の日記だ。最初の投稿は

■2000/10/19 (木) 香港~♪

明日のASIA MUSICFESTIVALに出るためにMAXは香港へと旅立ったぁ~♪

ってもので、MAX(特にれいなちゃん)大好き&身辺雑記日記としてスタートしている。一回分もまだまだ短い。日記を始めた動機はこう書かれている。

カラオケ行く約束してた友達にドタキャンくらい (急にカレシと会うことになったんだとっ!!) 部屋でひとりで飲んでて、つまんないからケータイで遊んでて、酔ったイキオイで作ってしまった(2000/10/31の記述より)

 こうして読み始めての最初の印象は、「女性アーティストを大好きな熱狂的女性ファン」特有の雰囲気があるなぁ、というものだった。女子十二楽坊の女性ファンたちも国籍問わずいろいろ知っているけど、お気に入りメンバーとかにはもうメロメロで、そのメンバーについて語らせれば何時間でも上の空で語り続けかねない。かといって別にレズビアン的な感覚でもないのだ。そんな「女性アーティストの熱狂的女性ファン」に共通の空気がここにはある。

 それから、この書き手が、フリーでやってるヘアメークだっていうのも間違いない話だ。ある意味、自分と似ていて(というか共通点が次々見つかってしまうのだけど)、フリーの立場でちょっと芸能界に片足突っ込んだようなこともやっていて、その関係でいろいろな裏事情なんかも伝わってきたりする、という状況だからこそ書ける日記だと感じた。

 一方で、俳句なんかも好きで、言葉とか表現に興味のある人だということもわかる。

 この日記に書いてあることを総合すると、結局この人のフルネームが「横山希美子」であることもわかってしまう。名前が「希美子」というのはあちこちに出てくるし、俳人としては「横山きっこ」。さらに英訳すると『サイドマウンテン・ミラクルビューティーチルドレン』(2001/12/17)だというのだから、きっこ=「横山希美子」で間違いないだろう。もっとも、それが戸籍名かどうかは知らない。固定されたペンネームかもしれないしね。

 そして、「MAXファンでフリーのヘアメーク、俳句も作る横山希美子さん(1972年11月22日渋谷生まれ、さそり座A型、世田谷区玉川在住)が、忙しい仕事の合間を縫って毎日日記を書いていた」ということは、文字通り受け取ってかまわない事実だと言い切ってしまうことにする。少なくとも、いろんな架空日記とか、なりきり日記とか、VNI(バーチャルネットアイドル)サイトも読んできた自分としては、日記を読む限り、横山希美子という人はウェブ上の架空人格じゃなくて、世田谷区玉川在住で実在する人物だとしか思えないのだ。少なくとも5年以上に渡って細部に至るまでのキャラ設定が変わっていないのは間違いない。

「きっこの日記」の歴史

 まずは「きっこの日記」の歴史をざっと見ておこう。

 「れいなの楽屋」以外にもいくつかの携帯サイトを運営していたきっこは、2000年10月にRoomsではじめた「れいなの日記」をほぼ毎日のように更新していく。その投稿は次第に長くなっていくのだった。どうやら1回の投稿文字数に制限があったようで、長文の場合は約1000字ごとに区切って1、2と分割投稿している。言い換えれば、一日2000字とか3000字の文章が投稿されるようになっていくのだ。

■2001/05/29 (火) 更新マニア

あたしは更新マニアだ。このお部屋は、多い日も安心♪…じゃなかった、多い日には10回以上更新してる!(ツカミはオッケー♪)ココの他にもいっぱいお部屋があるから、全部合わせると、毎日5000文字以上打ってる。でもきっと、誰も見てくれてないトコもあるんだろ~な?玉手箱の中の得するお部屋に『今日のきっこ』ってゆ~あたしのその日のファッションを書いてるページがあるんだけど、毎日更新してるけど、誰も見てない可能性『大』かも?きっこ捕獲に役立つのになぁ~(爆)

 だから「2000字近いブログを書けるヘアーメイクが存在するのだろうか」なんていう感想は、彼女の実在を疑う理由には到底なりえないってことだ。その倍以上をずっと更新し続けてきたという事実があるし、それは充分に可能な範囲である。逆に言えば、毎日原稿用紙5枚なり12枚程度の文章を書くのはプロでないと無理、という思いこみの方がアリエナイザーな話なのだ。

 で、この「れいなの日記」は2001年6月12日から約1か月休んだ以外は、ほぼ毎日のように更新され続けていく。これは2003年1月6日まで続いた。

最初の数ヶ月は、ケータイを使って書き込んでいたので、文章も短く、絵文字などはドットに変わっていたりもしますが、何よりも文章が稚拙で、読むに耐えないと思います。しかし、アクセス端末が途中から高性能なケータイに変わり、そしてPCへと進化し、連日2000文字以上のエッセイを書くようになった頃には、来客数も1日平均1500人前後となり、最終的には、2年3ヶ月の運営で97万人のアクセスを記録しました。(2003/08/26より)

 ところが、ここで予告なく半年あまりの中断が入る。その後、Roomsが閉鎖するため、日記は「さるさる日記」という日記システムに移転することとなった。ここで「きっこの日記」改名し、そのオープンは2003年7月20日となる。そして、それまでの過去ログをさるさる日記に移転する作業が始まるのだった。(つまり、今読める過去ログはすべて、このときさるさるに移転されたデータである。たまに日付を間違って投稿したと思われる日記が一、二見つかった)

 さるさるでの本格的な更新開始は9月2日からで、ここからはまた連日のように怒濤の更新が始まる。こちらでも一回約1000字の投稿制限があるようで、長文を分割投稿するというやり方は変わらない。そして、次第に一日の投稿が三分割~五分割という長編になっていく(つまり、一日に3000~5000字の投稿が続くわけだ)。まさに「中毒にかかった日記サイト運営者」そのものなのだ(たまたま職業がヘアメークだったというだけで、これくらいの日記ジャンキーはネット上には珍しくない)。

日記を書く時間は「1時間まで」って決めてるし、それ以上になっちゃうと生活に支障をきたしちゃうから、ものすごいスピードで打ってる。自慢じゃないけど‥‥って前置きした場合は、たいていが自慢話なんだけど、あたしの早打ちは、そこらのOLには負けないと思う。あたしとチャットしたことある人なら分かると思うけど、口でしゃべるスピードと同じスピードで打つことができるから、長文を打つことはぜんぜん苦にならない。ちなみに、今日の日記は、プリントしてるリストの原稿をチェンジしたり、そのつど色調整をしたり、ノートで書いてるこの日記のほうは、途中で少し書き直したり、立ち止まって考えたりしつつも、ここまでで15分くらいだ。(2005/08/24、ちなみに「ここまで」は約2000字)

 現在は「きっこのブログ」が「バックアップ用」として存在しているが、こちらは投稿制限がないので分割されていない。でも、文面はすべて「日記」を写したもの(あと、小さな画像が必ず入っている)。このブログがいつ始まったかは正確にはわからないが、ここにバックアップされている最古の記事は「2005.01.13 きっこ的ワラシベ長者?」、日記でこのブログに言及した最初の記事が2005/04/13となっている。あくまでも写真を載せるためのサブコンテンツの扱いだ。

 まあそんなワケで(ちなみに「ワケで」というのは2000年から使われている彼女の口癖)、簡単に言うと「きっこの日記を通読するのは大変だった」ということを強調しておきたい今日この頃、「きっこも長いがお前も長いわ」とそろそろ突っ込みたいところじゃありませんか?(笑)

 この辺で約5000字超、きっこの一日分です。続く。

  • 2000年 004万7178字(タイトル等すべて含む、以下同じ)
  • 2001年 022万1510字
  • 2002年 046万1507字
  • 2003年 012万1424字(約8か月の休載)
  • 2004年 069万1102字
  • 2005年 156万2377字

絵文録ことのは「ドラッジからきっこへ――ゴシップ情報サイト」シリーズ

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2006年1月31日13:25| 記事内容分類:ウェブ社会| by 松永英明
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夜の魚は干物になりました。 - 「きっこの日記」に思うこと (2006年2月 1日 00:36)

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真性引き篭もり - 思いません。 (2006年2月 1日 11:17)

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タカマサのきまぐれ時評 - 任期制/フリーター/派遣 (2006年2月 9日 17:25)

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らくちんのつれづれ暮らし - きっこの日記 (2006年2月 9日 21:18)

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http://katouen.jugem.jp/trackback/1041 続きを読む

やっぱりよくないんじゃないしょーか、松永さん。熟読すれば素性は割れるとは言っても。 仮に事実としても(事実かも知れないが、て言うか事実と信じて疑わない私... 続きを読む

情報ブローカーっていう職業があるらしい。ブラック世界を暗躍して取ってきた「あぶない情報」をネタに、売りつける。こういったウラ情報は以前であれば、「噂の... 続きを読む

知らないうちに150万ヒットしてた。昨日かな? 「きっこの日記」五年分すべてを通読してわかった。きっこの正体(きっこの日記検証1) [絵文録ことのは]20... 続きを読む

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本名と住所を晒すのは、本人の許可を取ってからの方が良かったと思います。
ライブドアやマンション偽装では「自殺」になった人もいるんだし。
私は、「きっこの日記」の意見とは違う考えを持つのだけど、彼女のサイトが無くなって欲しくないです。「きっこの日記」は匿名だから出来た奇跡だと思うのです。

玉川近くの風呂だけでかいアパートに住んでいる、ということは、彼女自身が何度も何度も日記の中で自分で書いていることです。ネットで隠していないことについて、なぜ「事前に了承」が必要なのか、まったく意味がわかりません。

他人の本名と住所を晒す件、5年間にわたる300万文字を整理したのは松永さんで、それを公開したのは松永さんの意思。インターネットで公開されている文書だから、それが禁止事項だとは思わないけど、ここで「横山希美子さん(19xx年xx月xx日xx生まれ、xx座x型、xx区xx在住)」と公開する意味が分からないし、デリカシーもないと思う。

【警告】当ブログ内に掲載されているすべての文章の無断転載、転用を禁止します。

>>2↑「きっこの日記」の一番上に書いてあります。全文掲載じゃないから転用でない、っていうのなら、そうかも知れませんが、私は転用してると思いますね。

たとえ引用であっても、これだけモロに「きっこの日記」を前提にした記事なら、メールで許諾を取るのが、執筆者としての最低限のマナーだと思います。
本人のOKが出てるなら、問題ないです。おもしろいエントリでした。

引用するのにマナーが必要ってw

きっこさんの一つの間違いは、「引用」はだれにも妨げることのできない権利なのに、一切の転載・引用とひとくくりにして禁止しているということです(著作権法に対する無知。ジャーナリストなら逆にありえないですが)。引用にも許可を求めるのは、著作権法上の越権ですから。
以後、許可を得ろだのなんだのという次元の話は無視します。

あと、他の人に対する論評をするのに「事前に許可を求める」というのは、「検閲」といいます。誹謗中傷や名誉毀損でない限り、正当な批評・論評をするにあたって事前に「許可・連絡」をしろというのは、おかしな話ですよ。まあロイヤリティが絡むといった場合は別ですが。

「嫌悪感を感じる人もいると思うけど、そう感じる人は、読まなければいいだけの話だ。」(きっこの日記2006/01/13 より引用)

>きっこさんの一つの間違いは、「引用」はだれにも妨げることのできない権利なのに、一切の転載・引用とひとくくりにして禁止しているということです

転用は禁止とありますが、引用って転用と同じですか?
ついでにいうと、クライン孝子氏が「きっこの日記」を自サイトで引用し(部分・出典明記)、
後で「転載転用禁止」とあるのに気づいた、として、きっこ氏に謝罪し許可を求めた際には、
きっこ氏は正当な引用だから構わない旨の返事をしたそうです。
(ここの12月8日分)
http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=119209&start=31&log=200512&maxcount=52

まあ、クライン氏の日記はいつも、引用文と本文の区別がいまいち不明瞭なので、
そっちで「適正な引用」の条件に引っかかりそうな気もしますが。

【警告】当ブログ内に掲載されているすべての文章の無断転載、転用を禁止します。
>>2↑「きっこの日記」の一番上に書いてあります。

ってコメントした人って、きっこさんのページの文章を引用してるけど許可を取ったのかな。コメントであれ引用を行うのに許可を取ってないのはマナーに反しませんか?
いやこのコメントもコメントした人に許可を取ってませんが。
っつー不毛な議論になるんだよなぁw

批評なり引用して欲しくないなら、誰の目にも触れない自分のPCにだけ入れておけばいいのです。

↑しつこいよアホw

それはマナーではなくて、言及先の敬意の表現。
即ち、敬意を表せよ。ということか?

横山きっこで検索すると・・・・・

最近の日記の内容は際どすぎるものが多いから、
名前を出すのはまずいのでは?
本人の身辺に危険が及ばないうちに
せめて名前の部分だけでも消した方がいいと思います。

■■■[No.1]や[No.4]の書き込みについて、お詫びします。■■■

松永さんに厳しく批判された後、著作権に関する法律や、絵文禄ことのはの過去ログ(全部ではないですが)を読みました。
http://www.kotono8.com/2003/12/12.html (↑「引用は無断ですればいい」が、特に参考になりました)

なるほど、著作権に関して松永さんの言う通りだし、私の書き込みが「噴飯ものの俺ルール」と言われても仕方ない、と考えるようになりました。

過去ログも読まずに、(著作権について知識を欠いた)その場の思いつきの書き込みで、松永さんのエントリを中傷したことを謝罪したいと思います。併せて[No.1]や[No.4]について、主張を撤回します。
それから、謝罪が何日も遅れたことを、お許しください。

■■■不見識な書き込みで、お手数をかけてしまい、誠に申し訳ありませんでした。■■■

最近、まったくひょんなことから(ライブドアとも耐震偽装とも狂牛病とも関係なく・・・)
きっこさんの「日記」を読み始めて、すぐに「なんだあ~!この人」と思いました。

ご本人が言っているように、30代のフリーのヘアメイクさんとはちょっと思えなかった。
別にヘアメイクさんだから、女性だからというんじゃなくて、
情報収集力の凄さとか全体から漂ってくる感じが、どう考えても・・・
古参のジャーナリストとが噛んでるとか、複数説とかが出るのも当然だと思いました。

俳人の横山きっこさんって確かに“存在”はするんですね。
でも、俳人としてのサイトも運営しつつ、いくつもある添削や掲示板の返事を書き
(しかも、なぜか「きっこのハイヒール」からのリンクになっている「ハイクブログ」
はこの1月にライブドアに移転してます・・・ナゼ??)
ヘアメイクの仕事をこなしつつ、毎日のようにあの長大な「きっこの日記」を書く・・・

これをたった1人でやってのけいるなんて、やっぱり信じられませんわ。
それに、もし彼女が本物のヘアメイクさんなら、仕事で関わった芸能人のネタも
結構バラしているようだし、関係者には彼女が誰だかわかってしまって、とっくに
仕事を干されてしまっているのでは?芸能界の裏方のことなど、まったく疎い私ですが
それくらいの疑問は持ちます。

「きっこの日記」にもたしか「俳人 横山きっこ」の著書が紹介されていたので
相当の関わりはあるんでしょうが、それでも私はやっぱり“複数説”に賛成します。

>ヘアメイクの仕事をこなしつつ、毎日のようにあの長大な「きっこの日記」を書く・・・
>これをたった1人でやってのけいるなんて

そんな人はたくさんいますよ。ご自分の能力で他の人をすべて推し量らないことです。

松永様

> そんな人はたくさんいますよ。ご自分の能力で他の人をすべて推し量らないことです。

本業と“日記”だけなら同じ程度のことは私もやってたことがありますよ。
でも、彼女の場合には情報収集のためのお付き合い諸々と俳人としての
サイト管理も含めた“お仕事”もあるわけでしょう?
ヘアメイクだってそれほど楽な仕事でもないと思うし・・・・
その辺の時間がどうしても足りないと思うんですがね。
まあ、いいですけど・・・
きっこさんが誰であろうと、私もあの日記が結構、好きなんで。

このようなきっこ氏のプロフィールを公表する行為に松永氏の悪意を感じます。
このような行為は低俗以外の何物でもないと思います。

著作権の法律にてらせば、matunaga氏の言うとおり。でも”正体”ってことばを選ぶのはちょっと・・・。きっこさんのブログを読んで楽しめたのなら、それを書いてくれたきっこさんに敬意を持つのが普通。もし本名だったら、どうするんですか?友達でもないのに、なんで詮索するのか意図がわかりませんね^^^^^。

きっこ工作員がいりみだれているようだが、きっこ自身が公開している内容を、こうだろうあーだろうと評論するのは「表現の自由」の範囲内でしょう。それを著作権があるとかないとか言うのは客観性を無くした屁理屈。

そもそも、きっこの本名らしきものが問題になっているが、本人が公開してるんでしょ?調べればわかるんでしょ?
それを隠す意味はあるんですか??????

本名を知りたいと思い人間がいれば、サイトの内容を調べますよ。ここで隠そうが晒そうが問題ではないですね。本人が公開しているんですから。本人が公開するのがおかしいと思うのならば、よけいなおせわだと思うけども、本人に言ったらいかがですか??????

ばかげてますね。ここでそんなことを議論するのは。百歩譲って、このサイトがおかしいのならば、きっこにこのサイトの存在を教えて警告するべきじゃないですかね?そういう行動をしたんですか????してないでしょうね。そういう、みかけだけ正義のフリをするのは誰でもやるしくだらないことです。偽善はカエレ。

欧州でもムハンマドの風刺画が表現の自由かどうかでイスラムと衝突しているけども、それよりもかなり難易度下がるね。

きっこという人に疑問を持ち検索しているとこちらに到着しました。なるほどと思い私も同じように、色々読み返して見ました!つい先日きっ個の日記を知りました。はじめは、すごい!って思いましたが、最近主人が購読している週間ポ○トとかいった雑誌は、結構情報が満載・しかも早いです。その雑誌の内容と同じことがTVなどで取り上げられるのは、いつもだいぶ後です。私も主人もその雑誌を見ながら推理したりするのが好きで、きっこなる人がその雑誌を見ているのでは?と思うことがしばしば。昨日?だったか又誰かからメールが来たとかいったことが書いてありましたが、その週刊誌の内容を見れば色々と書いてあってホントに自殺か!?と思う内容になっています。MAXファンのページリンクしてあったりするのを見るとほとんどが、同じ形式のHPです。仲間なのか?同一人物なのか?本当に女なのか?とか・・・フリーのヘアメイクとありますが、美容院等には週刊誌必ずと言っていいほどありますよね。本とはその関係者?プププ勝手に推理するのって面白いです!

私は、きっこさんの正体知ってるよ。たぶん当たってる。でも私が思ってる人の名前が一度も出てこないんだけど、それはなぜだろう?笑
ちなみに、私は高校生で初代から、この日記を読んでるよww最近すっごく読む人多くなったよね笑

はいはい。あんたはすごいねー

サイド→横
マウンテン→山
ビューティー→美
チルドレン→子

は分かるが
ミラクル→希ではなくて奇跡の奇では?

きっこの「本名」とは本当に「本名」なんですか?入念な「キャラクター設定書」があり、あとから読んでも整合性が取れるようにしてあるだけだと思うんですよ。僕はフリーのヘアメイクだとは思っていませんし、匿名でジャーナリスト?(複数かも?)が書いていると思っています。自分の社では書けない情報を。昔の「噂の真相」みたいなものでしょう。まあ仮にヘアメイクだったとしてもすごい情報網をお持ちですね。いまのジャーナリズムのふがいなさがよくわかりますね。これからもますますきっこブログから目が離せませんね。

「奇」っておかしいような。
奇妙とか奇人とか 何か如何わしいイメージを連想させる字だから普通人の名前にはつけないんじゃ?

きっこのブログって人のことを心が醜いとか言ってたけど、きっこの日記そのものが醜いと思うときがあるんですよね。ホリエモンはイノシシとかだし、色々あることない事書かれてるんだから、正体を知りたい。もう沖縄の件の謝罪文は消していましたね。確かに根性あるなぁ。

名誉毀損?だったら、あの日記の方がよっぽど名誉毀損でしょ(笑)
憶測で書いてる部分が多い訳だし

国会で民主党の川内博史議員がPSE法について質疑した日(2日)の「きっこの日記」のテーマが、PSE法にからめたコイズミ批判だと言うのは偶然なのだろうか?
翌3日には同じく川内博史議員が質問主意書の提出をするわけで、妙にタイミングが良すぎる気がする。
ちなみにPSE法自体については私も問題の多い法律だと思うが、それを通した時はまだコイズミは総理ではなかったはずだが。

川内博史議員のブログ
http://blog.goo.ne.jp/kawauchi-sori/

私の高祖父の兄である地家寅吉大室寅之祐
東京新明治天皇について取り上げてください。
おねがいします。地家康雅

「萩」へマンジュウつくりにいってくる
(「マンジュウつくりに行く」とは「人の死体の山を築きに行く」と言う意味で平たく言えば「人切りしに行く」という意味。ようは1865年1月(明治天皇かぞえ年16歳)の高杉晋作による功山寺挙兵に大室寅之祐(当時寅吉)が参戦すると言う意味。)

大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について 2005バージョンアップ
      
2005年6月26日作成

一、発端

明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説を、鹿島昇氏が新国民社から公刊し9年経つが、(裏切られた三人の天皇---明治維新の謎)一般人は知らず、歴史に興味を持つものにとって、このことは実に計り知れない衝撃であった。2chのスレに、南北朝問題に関する、情報がいくつか集まった。自信ありげな発信者は少数に過ぎないが、基本的には鹿島説にたって大室明治天皇説を敷行していた。残りの発言者は無知ないし、善意の第三者で大室説に対して、素朴な疑問をぶつけ、あるいは皇太子殿下に対して、感情的な悪声を投じていた。

 

情報は大室天皇説と北朝説に大別される。前者は、「明治天皇は大室家から出たのみならず、皇太子殿下も今上陛下の子ではなく、大室近祐の息子徳川恒孝の子」であると言うもので、後者は「今上陛下は東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁の御子である。」と明言するのであるが大室系を南朝と呼び(実は水戸斉昭の子である)中川宮朝彦系を北朝と称することにおいては全員の見解は一致しているようで鹿島説が世に浸透し共通の理解になっている事が伺えた。

これに橋本龍太郎の出自が加わった。すなわち、「龍太郎の父龍伍は橋本卯太郎と大室ヨネの間の子である」との事。 大室ヨネは大室寅之祐の弟庄吉の娘であるから、橋本龍太郎は明治天皇(従って今の皇室)と同じ家系と主張することになる。論点は更に皇位継承問題に及んだ。

◆山口県田布施町麻郷の大室さん

橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)についてお話します。

そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわかっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分からなかったが本質は、

A寅之祐の大室家が本当に南朝後醍醐天皇の玄孫光良親王が1400年に吉野から麻郷に亡命して大室姓をなのってから24代も続いているのか? 

B本当に寅之祐の実の父は大室弥兵衛なのか? 

と言う事であった。その後の調査で実はAに関しては、大室家(後の大室家)は1800年頃から始まり、文政時代に初代大室家当主が死去(系図には大室家初代某の父は麻郷某というかかれ方してる。)(妻は1830年8月9日死去)。2代目大室文右衛門が家督を継ぐ。同時代に大室家は村の大庄屋となり家が繁栄した。同じ頃頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。文右衛門の妻は1827年8月2日に死亡。子は1827年10月9日に早死してしまう。そこで大室又兵衛(1789年3月29日生れ)の息子大室弥兵衛(1813年6月14日~1879年)が文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日~1903年2月1日)と結婚し大室文右衛門家(大室本家)の養子に入って大室本家3代目として家督を継ぐ。ハナと弥兵衛との間に子供が2人できたが一人目は1849年4月14日に早死し2人目は1853年に同じく早死してしまった。
(以上地家の西円寺の過去帳による)
(※だから、大室寅之祐の代で、大室家4代目にあたる。)

大室近祐がワカルといってもせいぜい1863~1867年頃迄であろう。だから大室家が光良親王(1400~)から24代500年以上も継続してるとは嘘である。(500年以上も前の話等分かる訳無い)

Bに関してはこれを踏まえ、本当の所は、苗字も無い海賊某の息子作蔵が地家吉佐衛門(1840年3月12日没)の養子となり「地家」姓を賜る。地家作蔵となのり田布施町麻郷地家に住み着いた。1843年頃、興正寺昭顥(ショウコウ)坊(照景?)と娘スヘが田布施町麻郷地家の西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺からやってきた。(興正寺昭顥坊は興正派門主一族)やがて地家作蔵(生年月日は不明~1887年4月24日)
と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日~1855年11月20日)が1844年頃結婚する。スヘが満13歳頃の時である。作蔵(1824年生まれか?)と結婚した1年後、スヘ満14歳の頃、第一子(男児?)をもうけるが1845年12月15日に1歳弱で病死した。その後スヘは長女ターケ(1847年4月14日生まれ)を出産。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に戸籍名寅吉(普段使う通名は虎吉。後の大室寅之祐の明治天皇)をスヘの実家の西円寺にて出産。この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから戸籍を作る時、「地家」の地名を苗字にした。(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)

1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)戸籍名庄吉(通名は省吉)出産。1854年2月29日に戸籍名三男朝平(通名は浅平、浅蔵とも)出産。(俺の高祖父)

>>その後、1854年の春頃(4月頃?)に作蔵とスヘが離婚。長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭顥坊(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう)長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は某女性と再婚する。(作蔵の後妻某は明治4年9月1日死去)

1855年1月?頃(祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ)
地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没)(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説) 寅助の方も1857年6月22日に1歳数カ月で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。大室本家は実質作蔵の息子たちにのっとられた。(大室家に海賊の血が混入してガラが悪くなった)

そこから先は、鹿島昇著、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。1863年8月18日の政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着いてかぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び滞在中非常にかわいがって日々をすごしたという。(1863年8月~9月頃)その後1863年寅吉は奇兵隊に参加。1863年から1864年まで伊藤俊輔が大室家に立ち寄るようになった。1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけマンジュウを作りに行くと言って萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。弟の庄吉のほうはそのため別府村の高城家にあずけられて別居する事になった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは 1866年10月末頃、俊輔が寅吉(玉)を麻郷から連れ出した後のことであった。萩の杉家(松蔭の実家)へ玉を移し松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊)この時期に麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになった。麻郷村の人間が手分けして探した。(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取調べを受けて小役人たちに拷問されたが歯を食いしばってがんばりとおし、遂に行方を白状しなかったという。)

◆行方知れずになってから(1866年10月末頃以後の大室寅吉)

情報 1.
大室寅介について
(大室寅介とは庄吉のこと)

 京都の上賀茂神社って知っているでしょ。毎年9月9日に烏祭(からすまつり)ってのがあるのだけれどさ、このお祭りで奉納相撲が行われるのだけれど、この奉納相撲の記録ってのが残っているんだ。(記録って言っても寛政4年以前は残っていない)

この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、その中に、「大室寅介」という名前があったぞい!

大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介と言う名前で参加しており、明治維新後、奇兵隊の残党として1868年1月下関宰相に投獄されていた事が判明。(『萩東照宮文書』)

情報 2.
大室虎助について
(大室虎助とは大室弥兵衛の弟?大室惣兵衛が萩に在住していてその息子のこと。 松蔭ははじめ南朝満良親王の血を引くこの親子を玉(天皇)にしようとした。 庄吉も寅吉(寅之祐)も連れ子で、南朝大室家の血統ではないから。)(虎助は京都明治天皇睦仁と同じ年で新撰組に殺された)

新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助(16)の名前があった。

下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(16)(中略)等、同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(『慶応洛中日記』・『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。

その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になってるそうだ。(本当は虎助が殺されただけ。田中光顕が三浦天皇に語った萩生まれの玉とは満良親王系の大室虎助のこと。庄吉も寅吉も繰り返しになるが田布施町麻郷生まれだから。なお寅吉は1866年1月時点で奇兵隊の力士隊を卒業していたと言う。)

 こんなのあったよ!

大室寅之祐の実の母、スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれない。(母の実家、興正寺を革命のアジトにしてたのかも知れないし、麻郷に徳川系柳生の忍者跡があった様に、佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺にあったかも?。 こう考えると正式に明治維新は革命だったと思えてくる。この辺を調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)

 不動堂

木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。この橋の東西の通りを木津屋橋通りと言う。油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。木津屋橋通り油小路の南に不動堂がある。現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっているが、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。

慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。推定 3700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大浴場もあったと言う。

 木津屋橋油小路

不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。此処に慶応3年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。計画された暗殺である。同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東の喉を刺した。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。 伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40人に囲まれ斬り合いになる。藤堂平助ら3人が斬殺される。藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ衛士側は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。

 情報 3.
大室寅助(変名)(大室寅之祐のこと)について
(大室寅助とは行方知れずになった1866年10月末頃から1867年10月頃までの大室寅之祐(寅吉)の変名のことで、スヘ(基子)と大室弥兵衛の間の1歳数カ月で死んだ大室家4代目の血統の寅助になりすましたわけ。)(情報2にも書いたが庄吉も寅吉も作蔵とスヘの間の子でスヘの連れ子なので大室家の血統ではないから。) 
寅吉(明治天皇)は寅助(早死)ともとれる名前を名乗った。そこには節目の改名というより周囲が大室本家の血統である虎助(斬殺)や寅助(早死)と混同するのを誘うような積極的な作為が感じられる。事実、先にも書いたが後の田中光顕伯爵も明治天皇の入れかえは承知していたが正体は萩の満良親王系の大室虎助(斬殺)の方だと思いこんでいた。
寅吉が注目を浴びだすのは1863年頃、高杉が奇兵隊を結成して入隊してから。前にも書いたが1863年から1864年にかけて伊藤博文が麻郷の大室家に遊びに来たころで、七公卿落ちの時三条が大室家に立ち寄ったのもこのころ。だから吉田松蔭と寅吉の接点はなく、吉田松蔭の死後1863年ころから寅吉が玉として浮上してきた。 (伊藤の玉が寅吉。)

(情報)山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年という事になるが。西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。

>>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。

万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号である「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めていた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。

そして、1866年10月末頃まで戸籍名大室寅吉(通名(普段つかう名前は)大室虎吉)はこのころ大室寅助と改名し一時、繰り返しになるが松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため俊輔が麻郷から玉を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移し1867年3月下旬「玉」は田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。手紙がきて寅助(寅之祐)が上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之祐)にあえず、麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867年4月13日、二本松の島津屋敷に入った。しかし新撰組に捕まりそうになったので1867年10月17日に寅助を寅之祐と改名し亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。西郷らの忍者部隊にまもられて英国船などにのり一同は1867年10月下旬、田布施町麻郷の大室家に帰ってくるのである。それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と書かれた例の資料が出てきた話に通じる。(鹿島昇先生調べ)
1867年11月倒幕出兵軍、海路進発
11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し兵800を率いて上陸してきた島津久光と、博多から同乗してきた三条実美ほかの五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩摩屋敷跡あり。)
11月13日
藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3000は倒幕のため鹿児島から4隻の巨船にのって西宮へ。後上陸。
(1867年11月15日慶喜追討に反対してた坂本龍馬と中岡慎太郎が伊藤博文、山縣有朋、井上馨、3名によって暗殺される。)
11月25日
長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に分乗させて三田尻を発し第二陣1000人の部隊は陸路西宮へ進軍した。
先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。
大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。このような状況のもと、倒幕軍の進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867年12月9日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。(だから通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。)(今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。) 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。
このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。鳥羽伏見の戦いの時明治天皇自ら閲兵したというのはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立ってた。(護衛は第二奇兵隊)鳥羽伏見の戦い中(1月3日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できなかったという。
その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。
1月8日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。
1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が京都明治天皇は暗殺されたと書いてたがウソで維新後、京都明治天皇は比叡山方面の某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。
旧暦1868年(慶応4年)1月10日から1月15日までの間人事の一新が京都御所で行われた。この一新が「明治維新」の語源となる。(手柄のあった奴に論功賞をあたえた。)
慶応4年1月15日、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位。
15日以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。

1. 天皇すり替えに関しての疑問

天皇(院)の存在自体知らない、あるいは存在は知っていても、現代の様にテレビがある訳では無いので顔は知らない、と言うのが庶民レベルなのかなと思いまして。だとすれば顔が変わっても、庶民には分からないのかな?と思った次第です。

2.解説

いやいや、実は、テレビが無い時代庶民は情報を得難かったと思うでしょう。それがどうも違うみたいなのです。と言うのは、孝明天皇暗殺事件や井伊大老の暗殺事件等はとっくのとうに京の庶民の間に噂が広まっていた訳ですし、古くは菅原道真の時代(平安時代)等も、一般庶民の間に道真の怨霊(天神様)の噂があった位ですから。 案外庶民と言うものはばかじゃないのですよ。鹿島曻氏の著書に、京都御所内だから天皇を大室寅之祐にすり替えた所でばれない等と書いてありましたが、正しくは、鳥羽・伏見の戦で薩長軍が勝ったからこそ、(勝てば官軍)旧暦明治元(1868)年1月15日に、大室寅之祐が京都御所で「新明治天皇」として迎え入れられ即位した訳です。

それまで玉(大室寅之祐)は京都の薩摩藩邸に待機していた訳ですが、仮に京都御所内ですり替えられたとしたら、公家や女官が何百人もいる訳で、全員の口を塞ぐ等と言う事は無理な話ですし、まえに書いたとおり孝明天皇暗殺の噂と同様に、瞬く間に天皇すり替えの噂が京の庶民に広まるでしょう。ですから、田中光顕が三浦天皇に語った通り、明治天皇はすり替えられたというより何度でもいいますが鳥羽伏見の戦いに勝利した薩長軍が睦仁(京都明治天皇)を御所から追放し同じく京都御所に維新の時、大室寅之祐が迎え入れられたと言う方が正しい。慶応3年(1867)年1月、京都明治天皇(睦仁親王)は即位しました。しかし京都明治天皇の方も中山慶子が流産したため、ひとさらいつかって拉致してきた子を京都明治天皇(睦仁)にしたてたから睦仁が即位した次の日から京都御所内はパニックになった。そこで睦仁は中山忠能と中川宮朝彦らに京都御所のまつりごとをまかせ、約1年間中山慶子の実家の中山忠能邸でひきこもり過ごすことになった。

慶喜は、斉昭の息子中川宮朝彦(自分の兄)を上皇にするつもりで自分は雄藩連合の長、いまでいう総理大臣になるつもりだった。だから慶喜が勝をつかって勝が坂本と相談し、坂本が慶喜を総理大臣にするため木戸と西郷を引き合わせ薩長同盟をむすばせた。つまりはじめは、いまふうにわかりやすく例えたら薩摩党と長州党と慶喜党の3党連立で慶喜内閣を作ろうとした。がその後長州(木戸)がこれに反対。 木戸も西郷も寅之祐に権力もたせたいが為、慶喜と中川宮双方に消えてもらう必要があった。慶喜に権力を持たせると幼帝(寅之祐)の命が危ないと。。。さらに慶喜の背後にフランス軍がついて薩長の背後にイギリスがついていてイギリスは日本がフランスの植民地になるくらいならイギリスの植民地にしたいと考えイギリスのパークスが、慶喜と背後のフランスをつぶすために「開国を認める天皇(寅之祐)の元で薩長藩閥政府を作り慶喜を排除せよ」と命令。坂本と中岡が慶喜追討に反対し邪魔になったため伊藤、山縣、井上馨ら3名に暗殺された。(龍馬暗殺を指示したのは木戸)(勝も暗殺される予定だったが必死になって逃げ、命だけはたすかった。)薩長軍にイギリスが加担し慶喜軍にフランスが加担し戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)勃発。兵の数では慶喜軍のほうが薩長軍のより3倍もいたが薩長軍の新型兵器アームストロング砲で慶喜軍と中川宮は敗れ去った。上野の戦いでは家達と玉の東武皇帝を打ち破り、寅之祐が天下をとったわけ。

(1868年1月15日以前の)
即位当初の少年京都明治天皇(写真

  http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。

御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。基本的に「佐幕攘夷」。(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。

この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、倒幕開国派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。

元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。

即位後1868年1月15日からの明治天皇

◇明治維新後の大室寅之祐の東京明治天皇(写真) 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html

明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。

左利きになったのは、寅之祐がかぞえ5歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、母親が息子寅之祐にかまってあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。

基本は「倒幕開国」派。(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと)わない自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。

この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国・近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得。

明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった明治天皇は、明治時代軍隊を馬上豊かに閲兵した。

大室寅之祐の東京明治天皇(写真)(薩長同盟成立の記念写真) 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html

(1866年1月。当時大室寅吉。長崎にて。前の列、左から7番目の白い服を着た方。中央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方が東京明治天皇。フルベッキの真上のやや左が西郷隆盛)

◆その他 興正寺基子(SUEKO)=スヘの家柄に関する情報

興正寺(本願寺興正寺派)は浄土真宗では東西本願寺に次ぐ大宗派。

Q.スヘの父、大谷(興正寺)昭顥(ショウコウ)←この人はやはり高松松平家の血統ですか??

A.(徳川家康→水戸頼房→高松松平頼重→女子(興正寺由常室)・・・興正寺昭顥ースヘ)

Q.と言う事は今の天皇家は浄土真宗興正寺派(西本願寺)の血統ですか??

A.と言う事になりますな。結論から言えば。

Q.そう言えば昭和天皇の母方の九条家も確か大谷家の血縁でしたっけ??

A.そうです。

Q.大谷(興正寺)昭顥←この人がスヘを連れて田布施の西円寺に来て親子で住み着いたという説は?

A.正式には同じ浄土真宗本願寺派の西円寺に赴任した。

Q.高松松平頼修と言う人はいませんが頼寿(貴族院議長)の間違いですか??

A.間違いではありません。

Q.元々、大室家と高松松平の繋がりは何処から(何時から)来てるんだろう?

A.これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公(光圀の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭折しています。 (恐らく謀殺)これは水戸家の家督争いが関係していますが、高松頼常公には死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためです。なお万千代君の母親が長州藩の出身です。  

 (興正寺家) 毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘ

>> Q法号の記載のあったお寺は西円寺なの? それとも違う寺かなあ?(先生に質問)

A現在は京都興正寺(浄土真宗興正派)に有り。

本名「興正寺基子」(こうしょうじ-すえこ)。始めは末子、季子、後に基子。興正寺(浄土真宗興正寺派)門主一族の出身。位牌は不明で無ければ「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」等と最高級の名前は贈られ無い筈。位牌は明治20年に東京に持ち去られ戦災で消失? 但し興正寺には過去帳は残っており、スヘ様の存在と法諡が判明。

新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。

幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。が、慶応4年の戊辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽くす」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調達に全国を走り回ったのだった。

佐幕から、勤王へ路線を変更する事で教団の組織維持を図った訳だがこの事は明治天皇のおかあちゃんが興正寺基子(スヘ)で浄土真宗東西本願寺に影響があった人だが、何か路線の変更にその繋がりから影響が有ったのだろうか??

これでやっと謎が解けたね。

前に寅之祐は西円寺で生まれたとか言ってたよね。しかし、何故、作蔵の家では無くて、西円寺なのか疑問だった。昔はお産の場所に寺等を借りる事も有ったのかと思ったがそう言う事は無かったらしいし。

つまり、西円寺は作蔵妻スヘの実家だった訳だ。実家で出産するのは当たり前だもんね。一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てた。そこで西円寺の寺娘のスヘと知り合い、恋愛して結婚した。そして、生まれたのが寅之祐、庄吉、朝平だった。スヘの父親は大谷家の血筋で、何かの理由で西円寺へ下向した。こう言う経過なのだね。

◆作蔵について(人生何があるか分からない)

作蔵はおよそ満20歳の頃、スヘ(何と満13歳)と結婚。寅吉(後の大室寅之祐)はスヘ18歳、作蔵がおよそ25歳の時の子。だから作蔵とスヘが夫婦仲悪かったから結果的に離婚出来、子どもを引き取ったスヘが満41歳の大室弥兵衛と再婚出来、寅吉が大室家の南朝神話を利用して京都明治天皇とすり替わって東京明治天皇に即位する事が出来た。

前にも書いたが孝明天皇と中山慶子との間の子ども「本当の明治天皇」は流産した。だから京都明治天皇も人攫いつかって誘拐してきた男児をすり替えて京都明治天皇とした。しかも虚弱体質で孝明天皇の子ではないから即位当初から御所内が大混乱になった。当面は中川宮朝彦と中山忠能らが御所の政治をしきったが慶喜軍が鳥羽伏見の戦いでやぶれると1868年1月10日のあけがた京都明治天皇(睦仁)は京都御所から追放された。(睦仁の京都明治天皇は亡命したというほうがてきせつか?)(その後、まえにもかいたが比叡山方面の某寺に入り僧として維新後も生き延びた。)

一方、スヘも弥兵衛との間に一子儲けた。(スヘ24歳の時)前にも書いたがこれが本当の大室家当主大室寅助だが虚弱体質で1歳数ヶ月で早死。それより少し前、スヘも病死。この時、寅吉(寅之祐)はかぞえ6歳だった。後世、明治天皇の女癖が悪かったのは母親の早死による女性の愛情不足からだろう。40歳と言う異例の高齢女性大室文右衛門の娘ハナは前に書いたとおり大室弥兵衛の本妻だが寅吉(寅之祐)はこの継母(ままはは)に育てられた。 さて、作蔵の職業を祖父から聞いたのだが、作蔵はパワフルで海の男みたい。廻船業者で明治20年、死ぬ迄その職で有ったらしいのだが、多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥(上手く日本語で説明出来なくてスマン)を田布施町麻郷から愛媛迄運んで(時には大坂湾迄運んだ)利益を得る仕事で営んでいたみたい。1849年頃? その利益で既におよそ25歳頃と言う若さで西円寺の東隣斜め上チョイの所に家をぶっ建てた。 当然、刺青していて、体格は明治天皇よりごつくて光格天皇の様に背も高かった。以前は違う所に住んでいたみたい。だからそれ以前の我が家の足取りは不明。(何処の寺の過去帳調べたらよいのやら) 「地家」と言う所に家を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)が生まれた。前にも書いたが、だから戸籍を作る時自分の家の地名を自分の家の苗字にしたようだ。(「地家」の名前の由来は「村の中心」と言う意味。)西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途中ゼンリンの住宅地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔の麻郷村役場だった。 明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。(作蔵の位牌は明治20年柳原愛子が作蔵の葬式の時、東京から麻郷にやってきて位牌を京都へ持って帰った)葬儀は西円寺。祖父の話によると明治天皇の実の父だから作蔵の痕跡をけすため愛子が東京からきたらしい。だから、西円寺に作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載は無い。明治20年柳原愛子が田布施に来た(「鹿島昇」先生)目的は作蔵の葬式で西円寺に来る為。帰り女官の一人が大室天皇の秘密を(余計なことをつげぐちして)漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した。 京都に帰り立ち寄り(興正寺)、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。興正寺の過去帳によるとスヘの法諡は「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」。最高の法諡らしいのだ。(「鹿島」先生調べ)ところで明治天皇の写真は1枚しか残ってないらしい。なぜなら天皇をすりかえたことが国民にばれるとこまるかららしい。

大室寅之祐の弟、庄吉の孫、大室近祐は祖父庄吉から聞いた話として、 「わしがかぞえ12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」 という。 石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。 このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。

孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。 そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしていた。 彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。 大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。

大室寅之祐明治天皇と、追放された京都明治天皇睦仁(孝明天皇の実子とされてる)は性格も能力も全く異なり、東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったのだろう。

さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて政局を混乱させていた北朝系(足利義満の後裔)の孝明天皇が、「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演出によって暗殺されたのは、慶応2年(1866年)12月25日洛中下京区岩滝町の堀河紀子邸であった。 同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。 やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長の伊藤俊輔(博文)が、自ら愛用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機させておいた英国艦に乗って引き揚げた。 (便所は中二階式になっており、落下してくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいたわけだ。) こうして孝明帝が無くなると、翌3年正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。 ところが親王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、

>大室寅之祐の明治天皇と京都明治天皇睦仁は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。官僚と政治家の情報独占がこのような事件を可能にしたと言えよう。

当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可証を与えていた、といわれている。 藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。 実際、英国艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。

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急死した民間研究者のメモを一部紹介します。彼は思想的には右のようです、ご心配なく。

*孝明天皇毒殺説が定説

南條範夫母方の祖父・土肥十一郎(号 春耕で閑院宮家の侍医)の実見談では、 「慶応2年十二月五日夜半、御所で白羽二重の寝衣を敷き布団の上に横たえられた貴人の死体を検死。 脇腹を鋭く尖った刃物で深く刺されていた。恐らく凶器は槍・・。斜め下から上に向かって突き上げられた 格好。その四○歳位の貴人を「お上」と断言。従って槍による刺殺説。

*陸仁追放すりかえの伝承 大室寅之祐(南朝末裔で長州力士隊と入れ替え長州藩の忍者部隊)、指示者は伊藤。木戸も忍者。岩倉、三条、中山忠能、西郷、大久保も同意。 *時期 大室寅之祐上京は、慶応3年3月から4月にかけて。六月二七日松平閑そう(鍋島斉正)京に入る。明治四年の条に 「四月大阪行在所にあり、同十七日天皇東本願寺に幸す。木戸(桂小五郎)天顔に」。  『防長回天史』。鍋島(情報係は江藤新平だけでなく宮中にもホットライン)により教導され仕上がる。

*大室について  田布施町麻郷が生家。田布施町の大室近祐氏(平成八年田布施町麻郷で永眠)は次のように 語った。「祖父は明治天皇によく似ていた。わしの家は南朝の末裔で、明治維新の時、七郷がしばらく滞在 していた。祖父の兄寅之祐は、後京都に行って明治天皇になった」。 私自身はあまり関心がありませんが、議論の材料として紹介します。

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大室家の人々の篤くべき証言 (内容が少々重複します) 

大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。一人は麻郷奥の前田 家から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人 は近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)さんで当年94才、故あってず っと大室家で暮らしてきた方である。 この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い出をぼつりぼつりと話してくれる のだが、その中にはなんとも驚くような証言が含まれているのでそのあらましを解 説する。

実際、大室弥兵衛の長男は、大室寅之祐で(地家家の壬申戸籍では寅吉)(大室家の壬申戸籍には寅吉の記載がない) あって、文久三年八、九月、七卿が大室家に滞在したとき、三條実美らはこの寅吉(寅之祐)を掌中の珠のように可愛がり慈しんでいたという。 そのため3学年年下の次男庄吉は、別府村の高城家に預けられて別居す ることになった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは、慶応二年一〇月、伊藤 俊輔が寅吉を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後のことであって、翌3年 3月下旬、寅之祐が「玉」として上洛した時、庄吉は満一四才であった。  これがもし戸簿謄本に記されている通りの生まれ年としたら、兄寅之祐の行方 について、郡の大庄屋時政藤五郎ら宰判所役人の取調べを受け、しぶとくしらを きり通した時、一七才ということになるから一人前の青年扱いされて、とても命 はなかったであろう。だが実際には一四才であったから、「少年だから命は助け よう」ということになって実家に帰ることを許されたのである。

一、慶応三年一〇月下旬、睦仁に変身した寅之祐が女性に化けて、芸者風に 装った女官たちを引連れ、西郷らと共に麻郷の大室家に帰ってきた。その中に後に東京明治天皇(大室寅之祐)の皇后 になったはずの(奇兵隊)一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも寅之祐の側にべったりで あったという。(だから奇兵隊一条勝子とこのころ京都の准后御殿に避難したほんものの一条勝子とは別人) この勝子は寿栄姫ともいったが、性慾も独占慾も強くて、 寅之祐の行く所へは何処までもついていった。しかし彼女の子宮には欠陥があっ たのか、性力旺盛な明治天皇といくらセックスしても子が出来なかった。そのた め異常に嫉妬心を燃やし始めた勝子は、多くの側室に子供が生れると直ちにくの 一忍者を使い、幼児の鼻口にぬれ紙を当て次々に殺していったという。 天皇の側室は、二八人居たといわれ、その間に皇子、皇女は一九人いたが多く は二才までの間に死亡している。 明治一二年、天皇の子を身寵った(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐れ て、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、八月三一日無事男児を出産した。 この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。

一、明治二〇年ごろ、柳原愛子が立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々 しく行列を組んで麻郷にやって来た。愛子は大室庄吉を呼び出して石城山へ登 る道案内をさせた。 

◆大室庄吉の子供たち
長男 儀作  (明治19年11月23日生)
長女 モト  (明治 4年 1月 8日生)次女 タカ  (明治 8年11月24日生)三女 ツネ  (明治11年11月 1日生)四女 ヨネ  (明治14年10月24日生)五女 ツユ  (明治17年 6月28日生) 次男 音吉  (明治22年 9月26日生)

一、昭和五八年(一九八三)、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か) が大室家にやってきた。この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と 懇談しているうちに次のような打明け話をしたという。 今上陛下(昭和天皇・裕仁) の子とされている明仁親王 (一九三三年 生)は、実は陛下のお子ではない。明仁親王が五、六才のころ血液検査をして調べ たところ、天皇裕仁の子ではないということが判明した。おそらく崇仁親王(三笠 宮)のお子であろう。もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。だから、「陛下はご自 分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」と語った。 その時たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹・1948生)の長男貴雄 (当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目でじ-と見ていた宮様は、 突然、 「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と言いだした。  近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、「明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあお れん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているのだ。この児 (貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。私 が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実はこのような こともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」 と平身低頭した。  なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、 宮様が慾しがったのも無理はない。また明治天皇(大室寅之祐)の弟・大室庄吉の 玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。筋の通った話である。 そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。みんなでいろいろ話し合った 末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなるだろうし、 毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫をやる訳に はいかん」 という結論になって、この話を断わることにした。  だが、この話を断わるについて、大室家の人々には次のような部いつらい思い出 があったのである。  近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待された二人の弟と 一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になつている。それも単なる戦死ではなく て、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方であった。

明治天皇 = 大室寅之祐 説はトンデモで、鹿島氏のデマと言われますが この本の殆どが何かからの引用なんです。鹿島氏もここ迄集めたと感心します。 鹿島氏の都合のよい内容だけを引用している可能性ありますが、引用部分に限れば はでっち上げではない様です。 自分は鹿島氏の信者ではありませんが、執念ですね。

鹿島本の引用要約

・将軍家茂・孝明天皇暗殺?の謎  毒殺説 → ねずまさし/「孝明天皇は病死か毒殺か」  刺殺説 → 南条範夫/「孝明天皇暗殺の傍証」(閑院宮家の侍医の証言)  他 アーネスト・サトウ

・睦仁親王の暗殺/南朝後醍醐天皇の末裔、大室寅之祐と入替えの謎  → 三浦芳聖/「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」(三浦芳聖と田中光顕との対話)  → 松重正/「大室家の人々の驚くべき証言」  → etc...

・明治天皇の変身ぶりについての謎  → 中山忠能日記  → 蜷川新/「維新史にこれだけ裏がある」(討幕の密勅とは逆の親書を三条家で発見)  → etc...

・纂輯御系図の謎(さんしゅうおんけいず・北朝のルーツに当る貞成親王を「父不祥」 と記載。有栖川を総裁に任命。明治10年元老院発行)  → 長島銀蔵/「皇統正史」

・明治天皇の奥さんが何故に昭憲皇太后?  → 原敬/「原敬日記」

個人的に次ぎの項目を加筆すると鹿島本の続編ができそう。 大いにもり上げましょう。

1)有栖川宮家最後の嗣子、栽仁親王急死で司法解剖の謎 2)有栖川宮熾仁親王の息子、出口王仁三郎・大本教弾圧の謎3)旧官弊中社に南朝の皇子、旧別格弊官社に南朝の功臣が多く祀られている謎 4)明治神宮の神社紋の謎(明治神宮の祭祀はだれ??) 5)踊る宗教と神道天行居など多くの宗教本部が石城山麓に集まってる謎 (226事件前に石城山の神社に集まった将軍たちはだれ?他はだれ?)

その他情報

俺の爺ちゃんが天皇の医療団の一人だったのだが、当時の天皇(つまり明治天皇ね)から色々と品を頂戴したのだけど、その中に「長 ●●●家系譜」(●は塗り潰されて分からない)と言うのが有るんだ。透けて見ると「大」の文字が最初にくるので、こちらで話題の大室家の系譜かも知れない。どうせ嘘だと言われるでしょうけど・・

◆長州大室家系譜?

Q. 大室と先生の弱点は大室寅之祐の父、大室弥兵衛から南朝光良親王迄の大室家の家系図が欠落してる点で、もし宜しければ詳しく教えて下さい。

A. 私には価値がよく分からない。本物かどうかも分からない。そもそも、天皇から拝領と言う事すら眉唾もの。ただ、天皇からの拝領品の中に一緒に収まっていただけなんです。他にも山県有朋やら伊藤博文やらの手紙も幾つか有りましたけど、こちらは公共の機関に譲渡しています。 系譜は江戸時代初期詳しく言えば初代「麻郷某」死去年(1616年)からみたいです。ただ、文政年間(大室)から幕末にかけては故意かどうか削除されています。一応、幕末の記録帳に、「長 大室虎(ママ)之祐」と書かれている様です。昔の字体だから、よく分からないです。こう言った史料は何処で見て貰えば良いの? (初代の頃は「大室」では無い違う苗字になってます。)

やはり、旧字体ですから何と書かれているのやら。ただ、南朝云々と言う話があるそうですが、初めの由来書?(「由緒書」と大文字で書かれています)には、

南朝後○○天皇ノ●●●(中略)忠臣北畠師親息女●●●(中略)ト光良親王ハ敵地に進ム。(以西ハ北朝ナリ)消息知レズ。系譜ハ元和弐年ノ始祖「麻郷(後ニ●●ト改メ)」ヨリトシ、後裔ノタメニコレヲ残ス。(○○はここだけ旧字体なので分かりません。●は削除されています)

この事?ですか???(「鹿島昇」先生の本より)

この時、96代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王と共に乗船して周防へ下向した。船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市・・・・

系図はその後も続いていますが、うーんどうなんでしょう。書いてあると申せば書いてある様ですし、無いと申せば無い共。兎に角、読み辛いのです。しかし、「長 大室虎之祐」 の隣には、「省(ママ)吉」(国賊ノ名ヲ改メ) とあります。こちらも横枠にごちゃごちゃと書いてありますが、読めません。

先程、父に聞きましたが、正確には天皇からの拝領物では無く、曾祖父が医師を辞した時、伊藤博文(?)から長年の功績に報いて色々な品々を頂戴したそうで、それは天皇の御意志でもあったそうです。それと系図については、曾祖父がさる高官から命じられて作ったそうです。それが不要の長物となったので、返却されたと言う話です。その時に「処分する様に」と言われたそうですが、折角の記録で有るからと一緒に締まっておいたそうです。この事は先程聞いて初めて知りました。

私は日本史に疎い方でして、皆様より関心の度が無いのです。お話から歴史の裏の部分を証明する資料なのかも知れませんが、私には蚊帳の外の話しでして。叔父からの話でも、「昔は天朝様にお仕えしており色々な物を下賜して下さった」 と言った程度の話しか聞いておりません。資料についても色々と考えてみますね。それと横枠に朱字で、 「故アッテ抹・・・(中略)●●ニ京●●●●●家ノ●子トナ・・・」とやたら長く文章が書いてあります。(●は読めないだけで削除文字ではありません)追加((年号)ニ京闕生名倭人家ノ養子トナル>>作蔵の妻が長男虎吉、次男省吉、幼い二人の子を引き連れて、作蔵と離婚。後、作蔵の元妻が大室弥兵衛と再婚。つまり寅之祐は「地家」家から大室家(京闕生名倭人家)の養子となった訳。)
書きたいのは山々なんですが、私には読めません。

系譜の最後に、

「明治三十二年六月 改  ●●●●●」(●は自分の曾祖父の名前なので削除します)と書いて有るのは読めますが、どうやら表紙など一部を改めらしく、内容の殆どは昔の字体です。素人の自分には読めません。大室と言う姓ですが、他にも記してあるのかも知れませんが、幕末の大室さん以外は分かりません。正直見てみないとわかりませんよ。滲んでいますので。ただ、「虎(ママ)之祐」と言うのは間違い無く書いてあります。他にも朱字で書かれている箇所がありますが、そちらの方が詳細に書いてあります。後、この後も大室家系図は続いています。此処から派生して色々な系譜となっているみたいです。一応、自分が受け継ぐ事になっていますが、まだ親父の物なので公開については相談してみますね。  

その他
1400年、南朝系の皇子光良親王が大内弘茂に連れられて麻郷にきた時、周坊はこんな状況だった。
大内義弘(弘茂の兄)は幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様でる。当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁を無視出来ないと思われる。(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)

各藩の幕末の玉
尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。
水戸藩の「玉」は有栖川宮。
長州藩の「玉」は山階宮。
島津藩の「玉」は中川宮なれど、朝廷、幕府、さらに明治政府も翻弄した「悪玉」。
紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏。
徳川幕府の「玉」が日光宮こと東武皇帝

高松八幡宮で王政復古の大号令が発せられたと言う鹿島説は本当の事。(昔、爺さんに聞いた事有る)それと何処だか忘れたが島津久光の軍が進駐した場所も麻郷に有った。西郷隆盛や三条も一時宿泊し、滞在した跡が今も残っている。
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調査結果

寅之祐の弟庄吉の長男儀作 次男音吉 儀作の長男近祐  近祐の長男照明 次男弘樹 弘樹の長男貴雄。近祐の息子徳川(大室)恒孝、庄吉の娘ヨネ、ヨネと橋本卯太郎の間の子橋本龍伍、ヨネの胤違いの息子和田恵三郎、和田恵三郎の娘迪子。

以上  

 (天皇家)光格天皇の弟 仁孝天皇(真実は光格天皇と仁孝天皇は兄弟ですら無い)

光格天皇の息子孝明天皇か? 慶子が流産した明治天皇1 替え玉京都明治天皇2 大室寅之祐の明治天皇3 大隈重信の息子大正天皇 、昭和天皇 秩父宮(二人とも母は貞明皇后、父は大室寅之祐明治天皇) 高松宮(母、松下トヨノ、父は大室寅之祐明治天皇)東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁。(母は貞明皇后 )

三笠宮寛仁  桂宮 は三笠宮崇仁の息子。(北朝)(ただし高円宮の実父は細川護貞)

(大室は南朝)

以上  

情報を整理すると

高松宮が昭和58年8月に田布施町に居た事が証明されれば、大室=明治天皇の疑惑は一気に高まると断定して良い訳だな。そして、その真偽を知っている者は、当時の宮内庁職員、田布施町役場職員、及び政府首脳。此処迄、情報は狭められた訳だ。(大室ヒサ子さんは麻郷の大室家に高松宮が2回きたと証言)

橋本の家の系図誰か教えて 

大室寅之祐の弟、大室庄吉の女(むすめ)大室よねが、サッポロビール常務 橋本卯太郎の家に居候して女中になる。此処からが、始まり始まり。 既に卯太郎には本妻 真都(マツ)の間に4人の男の子と1人の娘が居た。明治39年、卯太郎が大室ヨネにお手付きして出来た子。それが橋本竜伍。(5男だから竜伍。竜伍の下に1人の弟と1人の妹あり) 龍伍は東大を主席で卒業した後、吉田内閣で大臣3回経験。龍伍の長男が橋本龍太郎。

話を整理してみる。(ややこしいので)

1、大室明治天皇と松下豊子の間の子が高松宮。

2、高松宮の双子の妹(山本静山尼)の方はやはり父大室明治天皇、母松下豊子。(だから山本静山尼は高松宮に似てる)静山尼は戸籍では高松宮より10歳年下になっているがこれはウソで宮と同じ年。尼は5歳にして入山し、8歳の時得度、23歳で第十世門跡。しかしこれはウソで高松宮日記より、15歳まで、宮中で、「やすこ」という名前で生活していたのである。 だから宮の日記から、この書き方から山本静山尼の存在をずっと以前から知っていた。5歳で離ればなれになった妹のことなんてほとんど記憶にないから。つまり尼は15歳にして入山し、18歳の時得度、33歳で第十世門跡。79歳ではなく89歳でこの世を去った。(もちろん奈良県で)
山本静山尼の息子が千宗室。

3、さて、話は変わって今度は三笠宮崇仁の話。九条節子皇后と東久邇稔彦の間の子が三笠宮崇仁。で三笠宮崇仁の隠し子が三笠宮晴子さん。今現在も京都に在住。三笠宮崇仁の双子の妹は糸子とよばれていた。(京都で)

4、大正天皇(リベラル)の母は柳原愛子だが父は大隈重信(リベラリストおよび反薩長の)。原敬が暗殺され大隈が病気にかかり大正11年には死亡するが大正10年に昭和天皇が摂政として即位。このころから(大正10年)大正天皇の権力が弱まり、昭和天皇の権力が増大した事からも考慮。

高松宮日記ですがここに出てくる尼さんは三笠宮の双子の妹ではなくて高松宮の双子の妹と考えて間違いない。自分の日記に北朝の(まったく血筋の違うアカの他人)人のことが書かれるわけがないから。同時に大正天皇に関してですが、原武史の大正天皇と言う本を読めばわかりますが、昭和天皇、秩父宮、高松宮に関しては明治天皇を中心とする勢力が書いた書によく出てくるんだが、三笠宮崇仁と大正天皇はほとんど出てこない。三笠宮崇仁がキゲンが悪くなって怒ったのはこのことでようは血統が違うから。大正天皇も明治天皇の子ではない。子供の頃も成人してからも大正天皇のところへ明治天皇がほとんどあっていない。自分の父(孝明天皇?・)を殺した岩倉が風邪をこじらせ自宅で寝込んでしまったとき明治天皇がわざわざお見舞いに行くため、岩倉家にわざわざやってきたほどなのに。

>>明治10年頃の宮中の勢力分布は岩倉派と大隈派とで熾烈な争いがあった。

中丸の真実のともしびを消してはならないを読めばわかりますが、当時、大隈重信派と岩倉派が政治をにぶんしていたそうだ。大隈派の方が力があって岩倉派の堀川辰吉郎(実は岩倉具視の息子が堀川辰吉郎)は宮廷を追われてしまった。そう、堀川家とは岩倉のぎりの妹、堀川紀子の「堀川」か???。だから堀川辰吉郎は岩倉と追放された千種任子につかえた女官「千草」(43歳で死去。)の間の子で千種任子(88歳で死去)の方はなるほど、宮廷を追われていなくて69歳までつかえていた。

>>だけど千種と千草が二人いたとはすぐには信じられないのであるが。

このへんが中丸の証言と食い違いを見せるあたりで千種任子(88歳で死去)は、辞官し、移り住んだ先は京都の堀川御所ではなく東京新宿区砂土原町なわけです。そこで88歳まで生きた。千種任子のどこを調べても「堀川」御所なんて出てこないわけです。だから岩倉と堀川御所を追放された「千草任子」(43歳で死去。)の間の子が堀川辰吉郎といえる。

一部紹介します

2ちゃんねる 日本史板「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう(復活版){このスレ開いて>>1にあるURLをクリックすると880レス読めます。}」と「大室寅之祐が明治天皇になったと言える2」を読んで見て下さい。内容は衝撃的で、橋本龍太郎の祖母の父、大室庄吉の兄大室寅之祐が明治天皇になったと言うもので、2000年8月出産予定の雅子様懐妊、流産の真相は実は橋本龍太郎の長男橋本竜の長男を雅子様、皇太子さまの間の子とし、こっそり養子にしようとして失敗した・・・等凄い事が書かれておりマスコミタブーも有って衝撃的でした。一度目を通して見て下さい。

>> じゃあ、明治天皇は130年以上も前の話だから、一度余所に置いといて、2000年8月出産予定の雅子様ご懐妊、騒動は何だよ。 TBSの報道番組(ザ スクープ)で産婦人科医が出て来て、「妊娠4週目でレントゲン検査して胎児の姿が確認出来ず。(公式な宮内庁発表) と言う事は、有り得ない。雅子様は妊娠しておられ無い!!」と泣きそうな顔で話していたのを、テレビで観たぞ!! 一説には、橋本龍太郎の長男、龍の長男を雅子様、皇太子様の間の子と言う事にし、株価上昇に利用しようとしたが、雅子様が余りにも嫌がられるので失敗したと言われている。この情報の出所は、何と宮内庁では無く、首相官邸と言うでは無いか!!! 当時、小渕は「2000年8月に太陽が、二つ昇る」と言った事は、有名だけど一つは景気の回復。もう一つは、??? 小渕が橋本と共犯で、雅子様ご懐妊騒動仕掛けたと伝えられるが???? もしこれが事実なら、大変な事だぞ!! 橋本は大室と遠い親戚だから、佐藤栄作に自民党公認にして貰って26歳の若さで初当出来たと言うじゃないか。

>>大体、2000年8月の出産予定、御懐妊騒動って何だ?

>>そりゃそうだろう。雅子様もまさか自分が妊娠もしていないのに、2000年8月に自分の子供が生まれて来るなんて夢にも思っていなかったのだから。(小渕発言後、自分が2000年8月に子供を出産する予定になっていた事を知って、雅子様は部屋に引き籠もり成され、皇太子さま以外の人間とは口もきかなくなって、人間不信になられた一連の騒動の事。)

◆何故、今、皇室は大室でなければいけないのか?

熊沢家は今の当主が確か娘2人で実質断絶に近い状況にあるし、今の皇室見ると、常磐会を中心とする、島津家および久邇宮家と大室寅之祐東京明治天皇を中心とする南朝大室天皇家(寅之祐の弟庄吉の子 儀作の子近祐の子徳川恒孝の子皇太子さま)と2つある。此等に自民党の権力が複雑に絡み合っているからさ。

政府自民党の支持基盤は3つあって1、郵便局、2靖国、3医者なんだけど、3の医療会の票田を作ったのが武見だったり厚生族の橋本龍伍だった。(大室寅之祐東京明治天皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋本卯太郎の間の子が橋本龍伍) 2の靖国及び神社本庁のボス(つまり自民の票田)は村上正邦だったが、歴代総理が靖国万歳なのは明治天皇を奉る事で靖国の票田を自民党が押さえると言う意味合いも有る。(つまり、遺族会の票田)自民党に右翼が多いのはその為で、突き詰めたら大室明治天皇の血統が130年以上続いているから、熊沢家を奉じても何の得にも金にも成らん。だから北朝の孝明天皇に触れる事は出来ても南朝の明治天皇の歴史に触れ難い。明治天皇の息子が昭和天皇でなくなってからまだ14年しか経っていないから明治天皇の歴史はそれ程古くないから共言える。

さて、橋本龍太郎の頂上作戦の話をしなければいけない。先、書いた通り橋本龍太郎の父龍伍は大室寅之祐明治天皇の姪、大室ヨネの息子であるから本質的には南朝なのかも知れないが、大室ヨネが女性で有るから橋本天皇(半分南朝、半分北朝)とする。で、今、日本を裏で実質的に動かしている5悪は、1.曽野綾子 2.正田巌(日銀を影で動かしている男美智子様の兄、(弟?) 3.美智子皇后 4.橋本龍太郎 5.橋本久美子だが、今上陛下はまだ17年しか経っていないので権力はそれ程無い。浩宮も権力はそれ程持ってない。議員歴42年の橋龍こそバリバリ権力持っていて、常に雅子様の御懐妊騒動を引き起こした主犯がこいつ。 (続き) 一度目は皇太子さまが結婚なされて3年目の1996年、丁度、橋本内閣の時、自分の孫。(橋本龍太郎の2女厚子の子か?)を養子にしようとして失敗。この時はマスコミに公にはならなかった。それより前に自分の娘長女の寛子を皇太子さまと結婚させたかったが、その野望は失敗した。(皇太子さまも寛子もお互い反対したから)

二度目は2000年8月に雅子様が子供を生む予定で流産したが、(小渕内閣の時)この時は長男龍の長男(2000年8月生まれ)を皇太子さまの養子にしようとして失敗。雅子様が公の場に出てこなかった。

三度目は先ず、橋龍の娘隠し子の和子が妊娠した。これが橋本と小泉の総裁選挙の少し前位の時。これに合わせる様に皇居に人工受精の装置が運び込まれ、南朝大室浩宮(小泉・森派・安倍・岸派を中心とする自民党右派(右翼)のタマ)のおたねを某女(雅子様の妹か?)に人工受精させ、今度は北朝今上陛下(宮沢派・河野派・吉田・麻生太郎─三笠宮(信子)秋篠宮・今上北朝派)のおたねを使い某女に人工受精。で、浩宮の胤で人工受精した女は先ず、女の子を孕む。だ・か・ら小泉を中心とする右派(右翼)から皇室典範の女帝改正論が急に勢いずく。しかし、この女が流産したから右翼から女帝論が急速にトーンダウンする。(このとき堤教授が解任された)

北朝今上派としたら今上が那須に行って東京に帰って来た所で、男子が誕生すると言う計画で、麻生太郎が「皇位は男子に限る」と言ったのはその事。イギリスのマスコミに今上の胤使って某女に人工受精して男の子を孕んだとの情報が漏れる。

一方、橋本の娘和子は女の子を妊娠しこちらが先行した。12月の最後迄、女の子か男の子かともめていたのは北朝三笠宮天皇今上一派(麻生)と橋本天皇の頂上対決でマスコミも男の子と言う事で準備してた。12月に入って少し長引いて最後に橋龍の権力によって和子の娘を愛子とした。浩宮は、部屋のドアを怒って蹴って出て行かれたと言う。最後に小泉が「女帝は慎重に検討する」と言い出し、みんなが唖然とする。つまり後ろ向きな発言に変化。

佐藤・竹下・橋本派が敬宮愛子・岸・安倍・森・小泉自民党右派(ウヨ)が南朝浩宮支持、吉田麻生三笠宮秋篠宮・明仁・宮沢・河野麻生派が今上陛下派、と考えたら分かり易い。小泉・橋本・麻生の3大決戦に皇室も巻き込まれていたと言う事。そして戦いはまだ続いて、今度こそこの3大勢力が、雅子様に男子を産むと言う事で凌ぎを削り、橋本派以外女帝改正には消極的であると言う。2~3年後か?に最終決着が付く筈だ。

年次 事績

天保8(1837)年

9月29日 徳川慶喜(よしのぶ:幼名は七郎麿)、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の七男として誕生。

弘化4(1847)年

9月 徳川慶喜、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の命により御三卿の一つ、一橋家を相続。

嘉永3(1850)年

1月10日 寅吉(後の大室寅之祐=東京明治天皇)誕生。

嘉永6(1853)年

6月3日 黒船(ペリー艦隊)来航。 6月22日 将軍・家慶薨去。徳川家定、第13代将軍に就任。

安政5(1858)年

この頃、宮崎鉄雄の養父・敬治誕生。 4月23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみ-なおすけ)、大老職に就任。慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣とし、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。 7月16日 将軍・家定薨去。安政大獄が開始され、慶福は家茂と改名し、第14代将軍に就任。

万延元(1860)年

3月3日 桜田門外の変(井伊大老、暗殺される)

文久2(1862)年

7月1日 一橋慶喜、朝命により将軍後見職に就任。 7月6日 長州藩、長井雅楽(うた)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。慶喜をあてにして倒幕路線を進み出す。

文久3(1863)年

4月20日 幕府、朝廷に対して、5月10日を攘夷期限と上奏。 5月10日 長州藩、この日より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。 7月2日 薩摩藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。 8月18日 薩摩・会津両藩、幕府と連合して公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放。

元治元(1864)年

1月 将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。慶喜も変節、これに賛成、中川宮邸において、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体。慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守衛総督を拝命。(しかし、慶喜は慶永と共に密かに将軍家茂の暗殺を計画。この後、薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国もこれに同意したと思われる) 。7月19日 蛤(はまぐり)御門の変 。7月24日 第1次長州征伐(征長の役)。 8月5日 四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。

慶応元(1865)年

5月10日 英国公使パークス、木戸・井上と会談。 8月 伊藤博文・大室寅之祐(当時寅吉)等が長崎のフルベッキの下へ行く。(翌慶応2(1866)年1月頃、記念写真を全員で撮る?) 。

慶応2(1866)年

1月12日 薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。 6月7日 第2次長州征伐開始。慶永はしきりに反対するも、慶喜はこの戦いで大室寅之祐に関する支配権を求めた(鹿島曻説)。 6月17日 英国公使パークス、島津久光・西郷吉之助(隆盛)等と会談。 6月20日 将軍家茂、第二次長州征伐で大阪に到着後、朝廷差向けの医師と称する者に毒殺される。(大坂城内に引き込み役がいた筈であるが、犯人は慶喜・慶永らしい)。10月頃 寅之祐(当時は大室寅吉)、行方不明となる。(田布施町麻郷の村人が手分けして探索) 12月25日 孝明天皇、堀河紀子邸において、伊藤博文に刺殺される。岩倉が便所の箱番を買収しておいた。

慶応3(1867)年

1月9日 睦仁親王、践祚(京都明治天皇)。幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。横浜で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。幕府に金がなくロッシュ公使を通じて仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。将軍慶喜、内政・外交全般にわたって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。 3月頃大室寅之祐(当時寅助)が『萩』から京都へ上洛。 6月16日 島津久光、山県・鳥尾に対して、西郷を萩に行かせると約束する。 6月23日 大室寅之祐(当時、寅助)の教育係・鍋島直正が入京し、寅助(寅之祐)を半年余教導。 6月24日 仏国公使ロッシュ、小笠原長行と会談。 6月25日 英国公使パークス、小笠原と会談。7月、中山慶子5ヶ日の宿下がり(『明治天皇紀』) 。10月13日 薩長両藩に倒幕の密勅が下る。将軍慶喜、朝廷に対して大政奉還を上奏。坂本竜馬・中岡慎太郎、伊藤、山縣、井上馨等に暗殺される。王政復古の声と共に全国的デモ「エエジャナイカ」始まる。その人数は500万人と言われる。 10月下旬、 寅吉が寅之祐と名をかえ芸者連れて田布施町の麻郷に帰ってくる。通史にある王政復古の大号令(12月9日)とは、田布施町麻郷の井神(地家の隣の)の高松八幡宮での事で、三条実美(さねとみ)も同席。 (午後の小御所会議も同様)

慶応4(1868)年

明治元(1868)年 1月13日 鳥羽・伏見で幕軍2万と薩長軍4千の兵が戦うも、薩長軍の「錦旗」により(もちろん幕府軍の方にも錦の御旗たっていたが)、幕府側は戦意を喪失し惨敗。

 1月15日、正式に大室寅之祐が「明治天皇」として京都御所に向かい入れられる。(それまでは、上洛した時京都薩摩藩邸で寅之祐待機)三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰) 。 「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と言う手紙を引用(『明治天皇紀』)。『中山日記』に「寄(奇)兵隊の天皇」とある。大室寅之祐(東京明治天皇)が正式に明治天皇となった。 4月1日 アーネスト=サトウ、「睦仁(大室寅之祐明治天皇)」に会う。(京都・(大室寅之祐)睦仁東本願寺にあり。誠に御強壮(『木戸日記』)

(慶応4(1868)年)
大政元(1868)年 6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇帝」に即位。慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。 8月に慶喜と中川宮(1863年にすりかわった水戸斉昭の息子の中川宮朝彦)が大室寅之祐明治天皇新政府に対しクーデター計画したが失敗。

TO松永さん
>あと、他の人に対する論評をするのに「事前に許可を求める」というのは、「検閲」といいます。あと、他の人に対する論評をするのに「事前に許可を求める」というのは、「検閲」といいます。

ちゃんと読めば、そういうニュアンスで言ってないのは明白。
それに検閲は意味が違う。政府など第三者に許可を求めるのが検閲。
国語力を磨くべし。

ただ他人が公表しているものを再度この場で公表しなおすことが何が悪い、という考え方には賛成。

↑の無名さん
>政府など第三者に許可を求めるのが検閲。
通説では、行政権に限られますがね。
さらに言うなら、表現自体を禁止しなければ検閲になりませんが・・
あなたもちゃんと理解した方がよろしいかと

佐藤説ですな

私は氏名の推測だのなんだの興味本位に書き立てるのは反則だと思います。法で罰せられない限り何をしても良いという風潮が腹が立つのです。はっきり言ってこの記事はあさましい。きっこさんの人気を利用して人の注意を集めようとしているからです。まるで罪人の正体でもあるかのように。
こういうことを出す前にきっこさんの許可を受けるのが礼儀だと思います。
 私は2ちゃんねるというところで○○の正体は何かというのを書かれ その中に全く事実と反する嘘と、ネット上で見つけられた個人ばかりか家族の情報を集められ曝されました。そのような個人情報を集めて晒された上、尾ひれをつけられて全く事実と異なる虚像を作られました、そのような被害は受けたものにしかわからない。レイプと同じです。そんなものは表現の自由ではなく暴力です。猛省と謝罪を促したい。

No.45の書かれるものの立場さんは既出のNo.26を読んでから書け、と言いたい。
それにきっこ殿は過去も現在も他人の中傷を非常に多く書いて公衆の場に流している。
善意の傍観者ではないのだ。
不特定多数の公衆に悪意を含む情報を発信する時点で、本人が暴かれるリスクも発生するものだ。
あなたの意見は稚拙すぎてお話にならない。

私も日記を全部読みましたが、きっこさんは、世田谷区玉川在住ではないと思います。もちろん、日記に書いてあることに整合性があればの話ですが。
きっこさんは、2005年の衆議院選挙で小宮山洋子に投票していると言っています。多分、事実なんでしょう。世田谷区玉川は、東京5区なので、東京6区から立候補している小宮山洋子に投票するのは不思議です。社民党支持者が民社党の候補に投票して無効票を狙うとも思えません。また、日記から小宮山洋子は特に重要ではなく、自民党以外にいれることが重要と読めるので、世田谷区玉川在住なら、手塚仁雄に投票すると思われます。
世田谷区玉川に住んでいるとの記述から2005年の衆議院選挙まで期間がありますが、日記を読む限り、引っ越した様子はないようなのでおそらく世田谷区玉川には住んでいないと思うのが普通でしょう。住民票は別のところにあるという考えもできますが、日記からは読み取れません。
私も全部読んだので、同じ苦労をしたものとしてお知らせしたく、投稿させていただきました。

本人がネットに公開している情報は本人のコントロールのもとにやっている…というものであって、誰か他人に(自分のコントロール外で)勝手に使われてもいいと思っているわけではない。

また、きっこ氏が「断片的に」「個人を特定不可能な状態で」公開している情報を、「勝手につなぎ合わせて」、個人を特定できる情報として再公開する権利など、松永氏には無いと思いますが、いかがお考えでしょうか。

言葉というものは、順番がとても大事です。順番や組み合わせがおかしかったら、意味が通じません。たとえば、「おかし」を、「おしか」と書いたら、全く違う言葉になります。すなわち、文字の順番一つで、違う意味を持った情報となるわけです。
それを、きっこ氏がある意図のもとに書いた「順番」を無視し、松永氏がまた別の意図のもの、勝手に「順番」を変えた文章を掲載するというのは、明らかに引用の範囲を超えています。法律に照らし合わせてみても、同一性保持権を侵害しているのは明らかです。

きっこは、層化だ。
イーホームズは層化だ。だから擁護する。

安全基準を下回った建築物を提供した。
→これは単に犯罪という事実である。
これはどんな主張しようが変わらないのに
長々と釈明する
 層化を壊すには内部から。

きっこさんは、自分で「テレビは事実をねじまげてる」的なコメントを掲載しておいて、実際自分もねじまげてる箇所が多数ある。一番新しい記事で言うと「報道の自由とは?」というタイトルで、日本は報道の自由度ランキングが51位だから自由がないと言っているが、そのランキングの最下位はアメリカである。はたして世界168カ国中の報道の自由度の最下位がアメリカだろうか?アメリカが低いとしても、その下にはあきらかに中国やら色々あるだろう。そんな適当なランキングを私は記事を知っていたからよいが、ソースも載せずに、「こんな適当なランキングを見つけて、そこにはこう書いてたから、一部記事だけピックアップして掲載」が非常に多い。きっこ自身もブログでテレビ局などに怒っている「情報をまげて報道」である。人が集まってブログで本まで売ってるのだったら、ちゃんと書いてほしい、適当な情報が載る度に「あー、ストレスたまってんのかねこの人」って思ってしまう。ちゃんとしてほしい。

↑これ、きっこさんに直接メールしては?
日記で取り上げてくれるかもよ。
逆に、きっこさんにこまか〜く反論されて、逆に無能さをさらけ出すことになるかもしれないけどw

2つ↑
それは逆に、きっこがいかに本質的にバカかという証明と同時に、
きっこがリークする情報源がいかに優れた情報源かが伺える事例だと思う。

このシリーズ記事にあるとおり、
きっこ自身は情報の真意を見抜く脳みそは持ち合わせていない。
身近にある優れた情報を丸々リークするときは、つまり現場の情報、最新鋭の情報だが
一般記事をみて、「これはウソくさいな」なんて見抜ける脳みそはきっこには装備されていないのだ。

っていうか、無断転載禁止といっても引用することは法で認められているよ。
本にも書いてあるだろ?無断転載禁止しますって。でも、論文やレポート、その他の書籍で他の書籍を引用するだろうが。そのときにいちいち許可とるんかい。
いいかげんにしろ!
知的財産法でググレかす

カニージャさん、私は情報をネットに公開することが「本人のコントロール」を難しくしていると
おもいます。「本人のコントロール」に拘るのであれば、ネットに「日記」を公開するのは、普通は見せないものを、人に見せるという点でおかしいのではないか?と思います。ネットに載せる「日記」とは全世界の人々に見せる文なので、それに対する意見、反論、分析、引用はある意味、仕方が無く、当然に起こりえることであり、それがいやであれば、自分の部屋の紙のノートに、誰にも見せることなく、書けばよいのではないか?と思います。

僕の目を『冷させて』くれてありがとう。きっこ複数説に賛成します。初会ですっかり熱くなってましっていたからー。イルカにいったり、F−1にいったり、かとおもうと多摩川ぞいを涼しげに最後は寒そうにバイクしていたり、かとおもうとタヒチに住むほとんどの人が知らない作家の子猫殺しに心底アップセットしたり、北原ミエが在日だとか、孫の手と言いながら英文の邦訳も要を得てるし、つっこみのポイントとディテールの充実と主題の切り替えは、『ゴルゴ13』のさいとうたかをプロダクションを思わせるところがある。そういえばプロフィールの書き方もゴルゴに似ていないこともない。きわめて趣味がいいのだ。好きな酒はバーボンではワイルドターキとフォーローセズとくるからね。どっちも安いからいいけど、年に1、2度しかクルクル寿司に行けない貧乏人ではないね。「嘘はもっと本当らしく言ってよ」てな台詞はかなりレベルが高いよ。まてよ、さいとうたかをの前歴は床屋だぞ! といっても僕のゴルゴへの心酔とさいとうたかをへの驚異と畏敬の念はそれが徹底した分業にもとずく『プロダクション』であったにしても、かわりはないし、きっこが怒り狂い切りまくる日本とゆう国とアメリカとゆう国、あるいは国家とゆうものについては、きっこが誰(達)であれ、同感同感。ただ不思議なのは
どうして日本とゆう国は高校の学友会以下の政府で学芸会以下の演出で世界第2位を維持できてきたのだろう? 単純にいえばアメリカに使われながらこれを後ろ盾に使っているからだけどもそれだけなのだろうか? まあこれほどバカなブッシュで大統領が勤まる不思議の方が大きいけれどー。つまりそれぞれアリやハチの世界のように見えないシステムが在るのだろうか? 地球的に見ると日本は結構巧くいってるほうだとおもうんだけどー。庶民(すみません)の正義感には反することばかりだけれどー。世界はもっとひどいんじゃないの。日本では話がいつも善悪になってしまうんだけど、世界はどこでも強弱/勝ち負けなんだよね。
勝てないと善は語れないんだ。善悪裁きで一日が暮れる日本はやはり天国だ!
と思うし、なんやかんやいってもみな善人だし、本当いい国だ!と思うことがあるのです。テレビはいつも食べるか笑うかだし。CNNは入ってきても世界は一向に入ってこないしー。ところで慎太郎が『整理』しに入って来たらキッコちゃんどうするのかな? ブログが消されちゃうのは『検閲』ではないのかな?ブログの自主検閲ってどうゆうこと?

きっこの日記、最近読み始めました。どんな人(もしくは複数)なのか知りたくこのサイトへ来ました。
”ミラクル→希ではなくて奇跡の奇では?”
というのがありましたが、多くの人が思っている事だとは思いますが、私も「ミラクル=希」というのが引っ掛かりました。あと・・・
「チャイルド」だろ!!チルドレン→子供達だよぉ~!なんで複数形だ??もしかして複数でやっているからこうしたのかな?とも思わせるけど、単に間違ったとも思えます。

この日記、MAXのれいな自身が書いた日記に思えて仕方が無い。
所々にでてくる雑誌に載ったMAXの写真に関する記述や、所々の自己卑下に
近い要素が非常にそれらしい。初期の名前そのまんま「れいなの日記」

きっこ氏は男性ですよ。だから、MAX仲間の
ハワハワことハワイアン常盤さんとも知り合っ
てから一度も会っていないし、電話でだって
しゃべってないでしょう。それに、きっこの日記
2でお友達二人のコメントが載せられていたけど、ケータイ3台を持っているきっこ氏の自作
自演の可能性大だと思います。
きっこ氏の正体を知っている人って限られて
いて、例えば担当編集者とか・・・
万が一ぽろっときっこ氏が男性だと言う事を
ある人に喋ってしまったとしたら、聞いた人
からのリークは信用できるのではないですか。

きっこはプロ市民。

このブログ記事について

このページは、松永英明が2006年1月31日 13:25に書いたブログ記事です。
同じジャンルの記事は、ウェブ社会をご参照ください。

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