2007年のことのは/対極にあるジャーナリストとブロガー

新年明けましておめでとうございます。

昨年は天中殺に入ったとたんいろいろとありましたが、人生最悪に近いどん底から上昇中であります。

さて、今年最初の記事は、ジャーナリストとブロガーの違いについて述べ、私自身はあくまでもウェブ上においてジャーナリスト志向ではなくブロガー志向で書いていくことを、新年の抱負の代わりにまとめてみたいと思います。

2007年1月 1日18:08| 記事内容分類:ジャーナリズム, ブログ/ウェブログ, 執筆・書き方・文章| by 松永英明
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これまでの新年コメント

ブロガーとジャーナリスト

 ブログというのは、あくまでも表現手段の一つとしてのツールにすぎない。表現のためのプラットフォームであって、その上で何をやるかは自由である。したがって、ブログで古典作品のまとめをやったり、ジャーナリズムをやったり、個人ニュースサイトをやったり、公開ウェブ日記をやったり、食べたものを淡々と記録したりしても、まったく問題はないし、その多様性こそがブログというツールの一つの特徴でもある。

 しかし、歴史的経緯として、「ブログで語る人」をブロガーと呼ぶようになった。そこでは、既存のいかなる存在とも異なる「ブロガー」という人種(あるいはそのような役割を果たすことのある人々)が存在すると認識されているわけである。

 ここで特に取り上げたいのは、ジャーナリストとブロガーの関係である。

 ここにもあるように、当初からブログを個人ジャーナリズムのツールととらえる人々がいたのは確かだし、現在も「ブログジャーナリズム」を目指す人たちはいる。このブログでも以前にこんな記事を書いた。もう3年前になるのか。

 しかし、私はやがて「ブロガーらしいブロガー」と「ジャーナリスト」はまるで別のものだと考えるようになった。それは、たとえばこの記事。

 ここで話題になった「弁当論争」をきっかけに、情報発信に対する態度において、ブロガーとジャーナリストは対極に位置するのではないか、と感じたのである。

 用語が厳密ではないので、きちんと書き分けるなら、「淡々と報告型ブロガー」と「ジャーナリスト型ブロガー」の違いというべきだろうか。

 民主党のブロガー懇談会に弁当が出るかもしれないという話について、ガ島藤代さんは

「弁当出すなんて、ブロガーをなめてんじゃねーふざけんな!」、ぐらいの気持ちじゃないとダメなのかもしれませんね。誰からも「買われない」のが本当のジャーナリストですが、「買われてんじゃん!」と周囲から見られれば、それは「買われている」のと同様。

 と書いている。つまり、ブロガーに対してジャーナリストの倫理観を当てはめたのだ。しかし、ブロガーすべてがジャーナリストとしてものを書いているわけではない。むしろ、ジャーナリスト型ブロガーはごく一部にすぎない。

 私のようなブロガーとしてのブロガー、つまりジャーナリズムにあまり興味のないブロガーとしては、「淡々と記録するよ」が第一義であって、たとえば「弁当が出ました」と淡々とその弁当について報告する。それが相手から供与されたものならそう書けばいいし、自腹ならそう書けばいい。そこを隠さなければ、「これはいいものをもらったから誉めるような書き方をするけど、とにかく思ったことを書きますよ」でかまわないわけである。

 最近話題になった「企業ひも付きブログ炎上」事件も、最初から企業のひも付きだと書いていれば何の問題もなかったはずだ。

 話を元に戻すと、私のイメージの中では、「事実を淡々と報告する」のがブロガーらしいブロガーであり、そうではなく、事実に対する自分の「正義感」を前面に押し出すのがジャーナリストであろう。

 以前、インタビューされたのでこのように答えた。

しかし、狭義の「ブロガー」と「ジャーナリスト」は相容れないものだと思っています。ブログジャーナリズムといった話題が一部で取り上げられていますが、水と油を混ぜたようなものが果たして成立するのか、個人的には疑問に思っています。

ジャーナリストには「正義感」や「倫理観」が欠かせません。「社会の木鐸」でなければならないという期待が、ジャーナリストを名乗る人たちにも、ジャーナリストを見つめる人たちにも存在しているように思います。

しかし、ブロガーにはそんなものは必要ありません。あってもいいけれども、なくてもいいのです。見たもの、聴いたもの、考えたことを「淡々と記録するよ」でいいわけです。

 これはジャーナリストは職業にもなるがブロガーは職業ではないといった表層的な問題ではない。また、上のコメントを「ブロガーに正義感や倫理観は必要ない」とまとめた上で、「ジャーナリストになるための「欠格事由」は存在するが、おそらく「ブロガー」は人間の屑でもなることができる」と述べた人がいるが、ここは決してそんな意味ではない。

 「ジャーナリスト」は、自分が絶対的に正義という立場からものを言う。自分は社会正義を実現するための社会の木鐸であり、悪を追及し、悪事を暴き、疑惑を暴くのがジャーナリストとしての立場である。だから、いかなる陣営にも買収されるようなことがあってはならない。

 しかし、「ブロガー」はそうではない。ジャーナリストではないライターにもそういう要素はあるが、自分が正義なのではなく、「世間はどうか知らないが自分はこう思う」を主張するだけなのである。それが「正しい」かどうかは別である。自分の立場からはこう発言するが、判断は読者にお任せします、それがブロガーである。

 つまり、ジャーナリストは自分が正しいという主張である。「市民」や「パブリック」を冠するジャーナリズム系ブログが多いが、これは民主主義的な「正義」(つまり、大衆の意見こそが正しく、政府はそれを聴け、という正義感)のあらわれに他ならないと思われる。

 一方、ブロガーは自分の考え、あるいは体験したことをとにかく表現する。

 「正義」という立場から発言することと、「自分の視点」という立場から表現すること、この二つには大きな違いがある。

双方向がそぐわないジャーナリズム

 かつてブロゴスフィア(ブログ界)と呼ばれたものは、今なら「Web 2.0型言論界」とでも言うべきであろうか。これが新しいジャーナリズムを生み出すという期待は以前にもあったし、今もそのように考えている人は多いだろう。

 しかし、その「新しいジャーナリズム」は、今までの「ジャーナリズム」とは違うものになるはずだ、ということを見落としている人が多いように思われる。

 ブロゴスフィアは多くの人たちのブログでの意見が議論を生み、多くのブログで扱われることによって、新たな世論や見解を生み出していくものと期待された。実際には有益な議論よりも「炎上」が目立つようだが、それはさておき、Web 2.0型の意見交換は、あくまでも「それぞれの人の視点」で語られた「それぞれの意見」を集約したものである。

 一方、旧来型のジャーナリズムはそうではない。そこには「ジャーナリストが正義と考える見方や"事実"」が前提として存在している。いわば一方的に見解を伝えるのでなければ、ジャーナリストは自らの立場を貫けなくなってしまう。単なる事実誤認の訂正であればまだしも、ブログのコメントやトラックバックで自分の主張する正義をコロコロ変えていては、ジャーナリストにはなれない。

 あるいは、ジャーナリストは、世論が見逃している事実を突き止めるところに意味があるとも考える。Web 2.0は世論の集大成であるが、そこで見逃される事実を掘り起こすジャーナリストは、世論に埋もれていてはいけない。

 ここでWeb2.0とそれ以前のスタイル、言い換えれば「双方向」と「一方向」の情報発信の違いについて、私は決して優劣を論じるつもりはない。むしろ、目的に応じて使い分けるべきだと思っている。たとえばウェブマーケティングにおいて、双方向のクチコミサイトと、メーカーの一方的プレスリリースは、両方が必要なのであって、一方だけがよいとか悪いといったものではない。それぞれ特質・性質の違いがあるということである。

 ジャーナリズムは一方的である。ブロゴスフィアは双方向的である。だから、

 双方向型のジャーナリズムを志向する泉さんに対して、私は、ジャーナリズムそのものを双方向型にすることはよくないと考えた。だから、ニュースサイト全体は「双方向」的なものであっても、必ず「一方的部分」、つまり記者による独自取材記事発信を行なうように提案したわけである。

ライターとブロガーの使い分け

 私自身は職業ライターである。このライターとしての執筆姿勢と、ブロガーとしての執筆姿勢はまた異なってくる。

 ライターというと「メディア業界」の住人と思われ、さらにジャーナリストと同一視されることもあるが、ライターの中にはジャーナリスティックな人間もいる一方で、まったくそのような性質を持たないライターもいる。ということは再三繰り返してきたことだ。

 自分のようなライターは、出版社あるいは依頼元から依頼されたとおりの文章を書く。それが職人としてのライターである。もちろん、その中でジャーナリスティックな主張をしてくれと依頼されれば話は別だが、私の受けている執筆では、基本的には誉めることが多い。粗を探して批判するジャーナリストとはまったく逆方向だと感じている。

 たとえば、インタビューをする目的も、ライターとジャーナリストでは逆である。簡単に言ってしまえば、ジャーナリストは取材対象の粗を探し、本音を引き出して暴き立てるのが仕事である。ライターはそうではない。相手が考えていること、相手が本当に言いたいことを引き出し、本人が普段考えている以上に正確に読者に伝えることが仕事である。つまりは代弁者である。

 もう一つ対比させれば、ブロガーは「○○さんは△△と語った」という事実さえ伝えれば充分に役目を果たしていると思う。しかし、そのレベルでは、ジャーナリストにもライターにもならない。○○さんが△△と語ったことが事実かどうか、そうでなければどういう意味・意図があるのか、といった掘り下げはジャーナリストに必要だろうし、あるいはライターなら効果的に伝えるための編集作業が必要不可欠だろう。

 したがって、ジャーナリスト、ライター、ブロガーという3つを対比させるならば、自分はときにはライターであり、ときにはブロガーであるが、ジャーナリストとしての立場に立つことは極めて少ないといえる。敢えて言えば、のまネコ問題について別冊宝島に書いたのが最近では唯一、ジャーナリスト的な仕事ではかったかと思っている。

 それはともかく、個人としての視点であるブロガー、依頼された内容をいかに伝えるかがポイントであるライター、正義を貫くジャーナリストは、それぞれ違った発想に基づくということが理解されれば、と思う。

まあそういうわけで

 自分が正義だと主張するのではなく、自分の立場から言えばこうなる、こんなものが好きだ、こんなものが嫌いだ、こんなものを見聞きしたよ、ということを表現していきたいというのが、このブログの方針であり、今後もその方向性は変わらないだろうと思う。

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2007年1月 1日18:08| 記事内容分類:ジャーナリズム, ブログ/ウェブログ, 執筆・書き方・文章| by 松永英明
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 さて、これが今年最初のエントリー。 年頭、「絵文録ことのは」の「2007年のことのは/対極... 続きを読む

コメント(10)

松永さんの言ってるジャーナリズムというのはイエロージャーナリズムだと思いますが。誰でも恥ずかしげも無くジャーナリストを名乗ってしまうような人間が跋扈する日本ではそういう認識が正しいのかもしれませんが。。。

ジャーナリストというのは社会的な問題を客観的に「報道」する人であって、他人の粗を探すのがジャーナリストではないと思います。

それに、他人が評価する過程でジャーナリストという評価が定着して初めてジャーナリストとなっていくわけで、自分からジャーナリストと言うのは単なる「自称」にすぎないのではないでしょうか?そういう意味で、「自称」ジャーナリストというのを別にカテゴライズして考える必要があるのではないでしょうか?

ルポライター、ライター、ブロガーという分類分けをしたほうが良いとわたしは思います。

《ジャーナリストは取材対象の粗を探し、本音を引き出して暴き立てるのが仕事である。》
揶揄も含んでいるとはいえ、私は松永さんのおっしゃるとおりだと思いました。
なんとなくですが、きっと松永さんは他人の正義によっていやな思いをさせられたことが多々あるのだろうなぁと勘ぐってしまいました。

みしまさん。
《社会的な問題を客観的に「報道」する人》というのは本当にジャーナリストと呼ばれているのでしょうか。
例えば「列車事故があり、200名が死亡した」というような記述を『客観的』と指しているのであれば、そういった記述しかしない人をジャーナリストと呼ばないことはお分かりになると思います。さらに言えば、その事故を記事にしようとしたのは一体誰なのかを考えれば客観的ですらありません。
客観的とは個人に成せるものではなく、主観の集合体における多様性以外ありえないのでは。
それとも、新聞記者のように主語のない、書名もない、主張もない文章を書く人を指しているのですか。言いすぎました。

自分の文章が客観的な「報道」であるなんて本当に思っている人が記事を書けば、それこそ主観による『正義』の報道であって、松永のおっしゃってるジャーナリストそのものではないでしょうか。

ジャーナリストというのは、表面的な事象に潜む社会的に有益な真実を見つけ出し報道するという人を言うのだという意味です。
列車事故のみを報道するのは単なる報道ですが、単なる事実情報の報道でなく、その背後にある問題に光を当てる(鉄道会社の業務運営方針など)をもってジャーナリズムというのではないかということです。また、ジャーナリストというのはジャーナリスト個人の積み重ねた信用やモラルが記事自体の信頼性の拠り所となるわけで、誰が言ったかということがまず第一に注目される職業でもあります。

●●はジャーナリストを名乗っているけど、実のところは単なるルポライターだといった議論もなされるべきかもしれません。

ジャーナリストは、なんか長期展望があるらしいけど、実は占い師よりまるで未来を見ることができない。
ブロガーには、3日後が見えてほしいぞ。3日後がちゃんと見えれば積み重ねて3ヶ月後が見える。

なかには、書いた数分後どうなるかもまったく考えないで、人生全体の哲学と未来予想でもされているのか??

身近な風景を見通すスタンスをもっている人がなぁ、現れれば興味がわくのだけど、なかなか見つけることができないでいる。ま、ニホン人である必要ないし。

「問題に光を当てる」ことこそが、「正義」なり「社会の木鐸」としての意識がない人でないと思いつかないことであるという認識で書いています。それが「客観的」であると思っているところにジャーナリストの勘違いがあると思っています。
また、新聞は「真実を報道する」と言いつつ、実は各社の偏見に従って主張しているということを隠そうとするので、やはり「正義に基づいて報じている」と考えます。
ブロガー的意識はむしろ「自分は偏っている」の認識から始まると思いますので。

問題に光を当てることは、正義でもなんでもないとわたしは思います。問題に光を当てた場合、その光の当て方によっては不利益を被る人たちもいるわけで、その不利益以上に社会的意義があるということが必要なわけです。

問題を明らかにする=正義という認識はこれから変わっていくのではないでしょうか?わたしは、真実を報道すること自体が正義ではなく、社会的意義を含んだことを歪めず報道することに正義があるのだと思います。

この記事を読んでも,結局なにがどう違うのかがよくわからない.そして何に対して両者が反目しているのかもわからない.

この種のメタ議論は,もっとシンプルに考えればいいと思った.ある情報源が存在したとする.シャーナリストはそのソースに対して意味論を施すのが限界.一方,プロガーはそのソースを生み出した本人である可能性までもが含められる.これが両者の相違点.論じる内容以前に立場上でこのような差が認められる.ここで持論を終えることにする.

通りすがりさん。
ジャーナリストがソースである可能性もありますよね。

客観報道と聞いて私が真っ先に思い浮べることは、新聞の胡散臭さです。
事件なり事故なりの事象のどれを記事にするか決める、誰が記事を書くかを決める。こういった選択は主観を抜きに考えることは出来ないからです。さらには、警察や政治の広報を好んで行いながらも平気で客観報道なんて言って憚らない。

《その背後にある問題に光を当てる》ということも主観抜きにはありえないはずです。真実も正義も客観的に存在するというのは全体主義の発想ではないでしょうか。

《「客観的」であると思っているところにジャーナリストの勘違いがあると思っています。》
客観的などありえないとちゃんと認識しているジャーナリストも少ないですが存在しますよね。ただ、ジャーナリストは表現する上で断定せざるをえない。「~ではないでしょうか。」「~かもしれない。」でしか文末を締めないジャーナリストに仕事は来ません。そこにジレンマが存在します。だから松永さんはジャーナリズムの表現を避けているということもあるのではないでしょうか。

偏ってると認識しているからこそ、『正しい』ではなく、《好き》と表現する。松永さんは非常に謙虚だと思います。偉そうで恐縮ですが、ぜひその姿勢を今年も貫いてください。

オーマイニュースに、セックスジャーナリストが登場されたけど、彼女は松永さんが主張されているブログに近いと思うよ。(松永さんも、ちょっとはセックスについてやってほしかったりする…)

別にブログだとかジャーナリストとかなんとかは、すべて関係ない。心の壊れたジジーなんだよ。こういったジジーは若々しさを否定しているんだよ。ジジーはバカでもあるから、若々しさが肯定されると自分が否定されているような気がするらしいのだろうな。

フローレンス・ダバディの年頭の言葉は松永さんのブログだと思うよ。で、ダバディの場合、年をとってもジジーにはならないはずだな。

ジジーは、既得利益を必死に守っているだけで、何も変えようとしない。頭の良さや経験は認める。で、世の中をよくする方法を知っているんだよ。でも、それを多くの人に知らせようともしないし、実現しようともしない。で、必死に、「自分を肯定するしかしない」のだよ。

若い人を批判したくはないけど、ジジーの既得利益からおこぼれをもらおうとするバカ者もいるんだよ。自分でゼロから作り上げたり経験したり勉強したりすればいいのに。で、そういうバカ者たちにはジジーは手を差し伸べたり、ま、利用するだけ利用して捨てたり…

で、最初に戻ると、日本の場合、結局、女性の方が、そして女性としてのスタンスや視点をもっていると、とても輝いていたりするんだよね。

で、で、松永さんが今後もイジメつづけられストーカーされるのは、ブログのトップページに、なんか中学生みたいな顔写真がついていて、この写真を見て、カっときてるのかもよ。あはは。なので、ジジーにならないでね。ならないとはおもうけど。

そうだ! ジジーやジジー文化やジジー新聞やジジージャーナリズムや、もう、ジジーは、すべてにわたって、「オリジナリティ」がない。本からそのまま書き写したり、社会全体を見渡しているようなスタンスをパクっているだけで、現実に何が起きているかも見にいかないし。

オリジナリティというのは、自己の試行錯誤した体験からしか生まれない。間違ったり、失敗したり、無価値であってもやってみたり、他人を批評したり罵倒したりしている暇なんてない。自分にしかないものを見つけ出すというのは、一般化されていたり体系化されている価値観からは絶対にできない。なにより、ジジーの話を読んで、ほほうっと思ったら、そういう自分を疑ったほうがい。もし、インリンさんの年頭の言葉の、新年快楽、造反有理ならば、自分の反抗心をみつめることの方が大切だ。

オリジナリティというのは、残酷で、価値がないことも多いし、未来にならないと認めてもらえなかったりする。未来のないジジーは、だからオリジナリティを認めたくないのか、でなけければ、ただひたすら既得利益を守りたいだけだ。

とにかく、ジジージャーナリズムは、巧妙にパクっているだけで、何の役に立たない。ITジャーナリズムなんて、とくにひどくて、3年後読んだら、まったく役にたたないのだから。あの極東ブログだって、役に立つのは、雑煮の作り方であって、あとはなんだろ役に立つのか? 世相が古びれば色あせるだけで、読見直す気になるのだろうか?

セックスの話にもどせば、セックスほどオリジナリティしか役にたたなかったりする。オリジナルでなければ、飽きておしまい。飽きないでせっせとしているのは、文化芸術まで高めているからだろうね。ダバディーは、セクシーだけど、ジジーブロッガーからは、腐臭がただよっているし。

くどいけど、オリジナルは無価値だったりする。そして、死ぬまでオリジナル思考嗜好志向試行指向はつづけていれば、ジジーではないのだ。ジャーナリズムがつまらないのは、パクリのマンネリズムだからだよね。若いひとには、オリジナルを目指してほしい。そして、何度失敗しても、自分の足で立ち上がってほしい。ファイト!

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このページは、松永英明が2007年1月 1日 18:08に書いたブログ記事です。
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