「小説」と一致するもの

表音文字と表意文字

 もし文字が音声を示すために便利な表音文字であって、そしてその国の言語と言語運用法が完全に統一ルールのもとにある場合は、文章=言語、言語=文章であって、言語はもちろん心の中で指し示すものを発表するのであるから、文章を書くということは、文字の教育さえ受ければ女性でも子供でもできるはずである。だが、そういうことは学者の頭の中の理想ではありえるかもしれないが、現在の世界ではまだ出現していない。

 また、もし文字が意味を示すために便利な表意文字であって、そしてその国の文字と文字運用法が完全に定まっているときは、文=心、心=文字であって、文字の教育さえ受ければ女性でも子供でもできるはずである。しかし、これもまた理想ではそうかもしれないが、実際にはそうなっていない。

 そこで、現在の世界各国の状態を見ると、

  • 第1:声音をあらわす文字を主として用いている国
  • 第2:意義をあらわす文字を主として用いている国
  • 第3:声音をあらわす文字と意義をあらわす文字とを混用している国
  • 第4:声音をあらわす文字と意義をあらわす文字とを両用している国

などがある。

続きを読む: 表音文字と表意文字

読者を突き放す書籍『電車男』には「編集」がない――「電車男」は読者参加型恋愛シミュレーションゲームのリプレイ

 今さらであるが『電車男』を取り上げる。結論から言えば、書籍『電車男』は最低の手抜き本である。こんな素敵な担当編集者をけなすことになるのは極めて心外であるが、しかし、こんないい加減に作られた本も珍しい。

 「電車男」のストーリー自体はどうでもいいし、それがフィクションだろうとノンフィクションだろうと私には興味がない。今回は著作権の問題もとりあえずどうでもいい。単に「まとめサイトをプリントアウトしただけ」という部分が問題だ。

 これは書籍を作るのに欠かせない「ライター」と「編集者(エディター)」の役割のうち、エディターの要素が欠落した本ということだ。以下、詳細に述べてみたい。

電車男
電車男

続きを読む: 読者を突き放す書籍『電車男』には「編集」がない――「電車男」は読者参加型恋愛シミュレーションゲームのリプレイ

「博客」と呼ばないで!中国ブロガー「博客」呼称騒動――博客中国 vs CNBlog

 『ウェブログ超入門!』にも書いたが、中国ではブログ/ブロガーを「博客(Boke=ポーカー)」と呼ぶ(中国語でbokeはボケではないので注意)。ハッカーが「黒客」というのと対比された表現だ。ところが、ここに来て「俺は博客じゃない!」と主張する騒ぎが大きくなった。「I'm not Boke」ちまちまボタンまで登場し、大変な騒ぎになっている。

 しかし、これは単なる呼称問題ではない。中国ブログ界の2大勢力の論戦なのである。「博客」の名付け親で『博客』という本も書いている「博客中国」主催者・方興東氏と、それに対抗するCNBlogの主催者zheng氏・Isaac Mao氏の対立だ。

 博客という訳語にはこれまでも議論があったが、今回は方氏の雑誌インタビュー記事にzheng氏とMao氏自身が反応したというトップ同士の正面衝突。その直前に「博客」表記を欧米に紹介した記事が登場していたことも、この騒ぎに火を注いだ。つまり、「博客」派・博客中国 vs アンチ「博客」派・CNBlogという背後関係を読み取る必要がある。

 しかし、これは対岸の火事ではない。方氏はもともとオープンソース運動やクリエイティブ・コモンズを絶賛する情報開放主義者である。オープンソース志向のブロガーは日本でも多い。

 一方で、方氏はブログを既成メディアに対抗する存在と位置づけているが、今回の流れでは「他人の記事を無断転載しすぎ」と批判されている。メディアへの敵対意識と、必要以上に多い長文転載といえば、木村剛氏を彷彿とさせるところもある。

 また、この批判の中では「サービス側がユーザーの著作物を勝手に利用する」ことが明確に否定されており、これは最近の日本ブログサービスにおける著作権規定に関する騒動と共通している。

 あるいは1年前に散々言われた「ITゴロ」「ブログゴロ」といった批判にも似たところがある。中国博客騒動は、決して他人事ではないのだ。

 今回は非常に長くなるが、この「博客」騒動関連記事を時系列順に翻訳して紹介する。

続きを読む: 「博客」と呼ばないで!中国ブロガー「博客」呼称騒動――博客中国 vs CNBlog

日本の女帝8人10代+4人の系譜 女性天皇即位の経緯を探る

 女性天皇を認めるか否かという問題が検討されつつある。そこで、今回は歴代の女性天皇(+α)についての即位の経緯やその治世についての状況を簡単にまとめてみた。今回取り上げた日本の女帝は以下のとおり。

  • 卑弥呼
  • 台与
  • 神功皇后
  • 飯豊皇女
  • 推古天皇
  • 皇極/斉明天皇
  • 持統天皇
  • 元明天皇
  • 元正天皇
  • 孝謙/称徳天皇
  • 明正天皇
  • 後桜町天皇
続きを読む: 日本の女帝8人10代+4人の系譜 女性天皇即位の経緯を探る

実用的文章の特質

 さて、今これから実用的文章がどういうものであるべきかということを説き、続いて、実用的文章はいかにして書くべきかを説こう。

 実用的文章というものは、まず第一にその特質として、書かれるべき必要があって書かれるものなのである。

 詩歌・小説の類の芸術的文章は、書かれるべき必要があって書かれるというよりは、むしろ作り出そうという希望があってから作り出されるといってもいい。あるいはまた清水がわき出たりとかするように自然に作り出されるものであるといってもよいものである。

 しかし、実用的文章はそうではない。まずその文章の上に書かれるべき事柄があって、それから書かれるものである。自然に流出するものでもなければ、一つ文章を作ってみようという好事に近い願望から作られるものでもない。知らせようと思うある事情があるとか、論じようと思うある理屈があるとか、あるいはまた訴えよう、勧めようと思うある事柄があって、そして書き出されるのが実用的文章である。

文章の分類表

 文章というものはおのずから大別されて二種となる。その一つは実用性を主とするもので、他の一つは美感に訴えることを主とするものである。理解しやすいように、その概略を表にしてみれば、下に記したとおりである。

 この表を見ればわかることであるが、実用的文章の領域は実に広大なものである。宗教・法律・政治・軍事・科学・技術・生産・商業・文学・歴史・地理・社交における文章、すなわち人の世の文章のすべては、ただわずかに詩の一部分を除いてみな実用的文章である。

 しかし、世にはまた種々のものがあるものであって、実用的文章とも言いかねるが、詩とも言いかねるものがある。けれども、それらは深く論ずる必要もない。なぜかといえば、それは詩がまるでひどく失敗したものであるか、さもなければ、実は実用的文章に属すべきものなのに、たまたま変わった書き手の物好きによって奇妙な書き方をされたにすぎないものなのであるから。

続きを読む: 文章の分類表

文章の目的、約束、用意

 以上、概略を語ったとおり、文章はその目的が異なればその約束が異なる。その約束が異なれば、その用意が異なるというのは自然な道理で、曲げることのできないことである。文章と一口には言うけれども、二種類あることを忘れてはならない。目的の異なる文章は約束が異なり、約束が異なる文章はそれを作る用意が異なるものであるということを忘れてはいけない。名前だけが同じなのに惑わされて、実質が違うものを同じように見てはならない。

 さて、この書で論じようというのは、二種の文章の中の一種、すなわち実用的文章についてだけである。詩や小説や劇や詩的散文や、すべてそれらの芸術的文章は除いてしまって、余ったもの、すなわち文章の中の一区画について議論しようとしているのである。決して大胆に文章全体を議論しようというのではない。詩や小説といった美術的文章に比べて、実用的文章ははるかに複雑でなく、また遥かに多岐にわたっておらず、神秘的ではなく、論ずることのできないものではない。むしろ、浅く近く、平凡で、ありふれていて、容易で、簡単で、そして明晰で、説くことができるものである。

 しかし、実用的文章はまた美術的文章に比べて、はるかに広大な領域を文化の上に有しているものである。文字が始まって以来、世界の文章の7~8割までは実用的文章ではないだろうか。実用的文章は世界の実質である。美術的文章は世界の色であり、香であるのだ。文章としては美術的文章の方が価値が非常に高いのかもしれないが、必要性がこの世の中で切実にあるという点では、実用的文章こそ美術的文章に勝ること、はるかに遠いものである。

文章の二種(A:実用的文章 B:美術的文章)

 文章というものの全体を仮に大別すれば二つになるようである。二つとは何だろうか?

 まず一つは実用的な文章である。そしてもう一つは美術的な文章である。

 実用的な文章というのはどういうものだろうか? 実用文章というのは、すなわち、実世間で実際に役立って、何らかの任務を果たすものをいうのである。例を挙げていって見れば、商業上の往復照会の文書であるとか、調査報告の文書であるとか、商品の説明であるとか広告であるとか、売買その他の契約であるとか、あるいはまた社交上の慶弔の文であるとか、種々雑多な用事の書簡であるとか、あるいはまた学術上の論説であるとか記録であるとか弁難であるとか、あるいはまた政治上の意見の発表であるとか、批評の応答であるとか、何だかんだと際限もないほど多種類であるが、要するに、短いものは電報や受領証の簡単なのから、長いのは科学上や宗教上や政治上の大著述に至るまで、すべて美術的であることを目的としない文章、すなわち実用に供される文章を指して、実用文章というのである。

 美術的文章というとどういうものだろうか? すなわち詩であるとか歌であるとか、小説であるとか戯曲であるとか、叙景または叙情の詩的散文であるとか、すべて世の実際の要務に対して直接には関わらない文章を指していうのである。これらの文章は間接には実際に世間とも接するが、直接には実際に世間と接触しないものであって、手近な例を挙げれば、和歌や俳句が受領書や電報のように実際の役に立つものではないことでもわかる。

 が、それならば、この美術的文章はすべてまったく世の役に立たないものであるかというと、もちろんそうではない。人の世にとっては、やはり実用的文章同様に重要な位置を占めているものである。ただ、これらの文章はそのもともとの性質として、人に対して虚しい感じ、つまり美感を得させるのを目的として存在しているものである。直接に、実世間の実際上に何らかの任務を帯びて使われている文章ではないのである。

「塞翁が馬」と「白い子牛」

 「塞翁が馬」(人間万事塞翁が馬)という言葉はよく知られています。ところが、この故事にはもう一つ同趣旨で対になる「白い子牛の話」があった――ということが、江戸時代の作家・滝沢馬琴の『燕石雑志』というエッセイに載っていました。以下、この項目を全文訳してみます。

 なお、『燕石雑志』は面白いので、今後も取り上げるつもりです。

続きを読む: 「塞翁が馬」と「白い子牛」

パクリの芸術 歌舞伎の「世界」と「趣向」

 正しいパクリ方論第二回。前回の正しいパクり方――藤原定家の「本歌取りの方法」に続いて、今回は歌舞伎の世界の話に入ります。

 その前に私の個人的な「正しいパクリ」と「正しくないパクリ=盗用」の境界線を明確にしておくと、それは「他人の着想を自分のものとは言わない。他人のものを使ったことをはっきりわかる形で示す」「先人に対する敬意を払う」という精神があるか否か、が最大の基準で、それ以外の形式的なものはその精神を反映するだけのものという程度にしかとらえていません。したがって、先日の「iframe問題」も完全に「盗用」と考えています。(※利用した作品の作者が「名前を出さなくていい」「出さないでくれ」という場合でも、「自分が発想した」と言わないのが筋でしょう)

 というわけで歌舞伎の話。

続きを読む: パクリの芸術 歌舞伎の「世界」と「趣向」
  1 2 3 4 5 6 7 8  

アーカイブ

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。
過去に書かれたものは月別・カテゴリ別の過去記事ページで見られます。