「詩」と一致するもの

文章の分類表

 文章というものはおのずから大別されて二種となる。その一つは実用性を主とするもので、他の一つは美感に訴えることを主とするものである。理解しやすいように、その概略を表にしてみれば、下に記したとおりである。

 この表を見ればわかることであるが、実用的文章の領域は実に広大なものである。宗教・法律・政治・軍事・科学・技術・生産・商業・文学・歴史・地理・社交における文章、すなわち人の世の文章のすべては、ただわずかに詩の一部分を除いてみな実用的文章である。

 しかし、世にはまた種々のものがあるものであって、実用的文章とも言いかねるが、詩とも言いかねるものがある。けれども、それらは深く論ずる必要もない。なぜかといえば、それは詩がまるでひどく失敗したものであるか、さもなければ、実は実用的文章に属すべきものなのに、たまたま変わった書き手の物好きによって奇妙な書き方をされたにすぎないものなのであるから。

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文章の目的、約束、用意

 以上、概略を語ったとおり、文章はその目的が異なればその約束が異なる。その約束が異なれば、その用意が異なるというのは自然な道理で、曲げることのできないことである。文章と一口には言うけれども、二種類あることを忘れてはならない。目的の異なる文章は約束が異なり、約束が異なる文章はそれを作る用意が異なるものであるということを忘れてはいけない。名前だけが同じなのに惑わされて、実質が違うものを同じように見てはならない。

 さて、この書で論じようというのは、二種の文章の中の一種、すなわち実用的文章についてだけである。詩や小説や劇や詩的散文や、すべてそれらの芸術的文章は除いてしまって、余ったもの、すなわち文章の中の一区画について議論しようとしているのである。決して大胆に文章全体を議論しようというのではない。詩や小説といった美術的文章に比べて、実用的文章ははるかに複雑でなく、また遥かに多岐にわたっておらず、神秘的ではなく、論ずることのできないものではない。むしろ、浅く近く、平凡で、ありふれていて、容易で、簡単で、そして明晰で、説くことができるものである。

 しかし、実用的文章はまた美術的文章に比べて、はるかに広大な領域を文化の上に有しているものである。文字が始まって以来、世界の文章の7~8割までは実用的文章ではないだろうか。実用的文章は世界の実質である。美術的文章は世界の色であり、香であるのだ。文章としては美術的文章の方が価値が非常に高いのかもしれないが、必要性がこの世の中で切実にあるという点では、実用的文章こそ美術的文章に勝ること、はるかに遠いものである。

文章本来の約束

 記事文は同じ記事文でも、実用的な記事文と美術的な記事文が同じようなものであるべき道理はない。美術的な記事文ならば、それが美術的であるということ、すなわち美術的であらねばならないということが第一に主要な約束である。実用的な記事文ならば、それが実際の役に立ちえるものであらねばならないということが第一に主要な約束である。その文章の本来の約束ということは実に大切なことである。

 奈良の吉野は桜の花の美観で有名な場所であると同時に、材木の産地としても有名である。今、もし林業者が同地を視察してその記事の文章を作るとすれば、それはすなわち実用的文章で、そしてその文章はもちろんのこと、林業者にとって何らかの参考になったり、利益になったりすることを目指しているのである。で、その一事がその文章本来の約束となっているのである。だからその文章は、事実を離れないように、浮いた言葉のないように、明らかに、わずらわしくなく、漏れのないようにできさえすれば、それで十分であり、上々であるのである。

 しかし、もしその文章の中に、支那風の悪く難しい形容の言葉や、日本古代の生ぬるい死語などがたくさん埋め込まれていたり、あるいはまた「白髪三千丈」などというような誇張はなはだしい文字が使ってあったり、「これはこれはとばかり花の芳野山」などというように人の感覚に訴えようとする気の利いた詩的言語が多く使われていたりするとするならば、それは面白くない、よろしくないと言わなければならない。なぜといえば、それらのことは、その文章本来の約束で求められている明瞭さ、確実さ、詳細さというものをいくらか損なう一方、不要な別の意味を付け加える傾向があるからだ。

 また、今もしある詩人が芳野の花を見てその記事文を書いて、まだ知らない人に吉野の美しい景色を想像させようとしたとすれば、その文章の本来の約束は、優美さだとか崇高さだとか、何らかの美を有するということである。で、その文章には、何の谷に桜の樹が体積にして何百何十本あるだの、何の谷に杉の根回り何尺以上のが何百何十本あるだのといった記事や、どこそこの地質は輝石安山岩だの凝灰岩だの水成岩だのという記事なども、必ずしも必要ではない。挿入するのは任意だが、林業者の視察のメモや、地質調査の報告書のようなものになってもらってはむしろ不本意なのであって、要するに何でもよいからいわゆる美的感覚を提供するものであってほしいのである。どんな文体で、どんなことを書いてもよいのだが、要するに読者に美感を感じてもらえればそれでいいので、そうでないならそれはよろしくないのである。失敗したのである。

二種類の文章を一緒くたに論じるのはおかしい

 そこで美術的文章と実用的文章の間には、二つをごっちゃにできない厳然たる壁が存在していて、その壁が二つを明白に区別している。

 つまり、実用的文章の側からいってみると、実世間における直接の任務の有無ということがその壁に示されている。また、美術的文章の側からいってみると、美感の有無ということがその壁に大書してあって、人に美感を与えない文章はこちらに入ってはならん、と拒絶しているのである。

 この美術的文章と実用的文章では、その目的が各々異なるので、おのずからその性質や機能や色彩や様子がみな異なってくる。で、二者を混同してしまって一緒くたに論じることは不可能で、かつ不合理なことである。

 例を上げれば、数理を解くときの文章は実用的文章で非美術的文章であるし、詩はもとより非実用的文章で美術的文章である。

 そこで、数理を解いた文章にもし論理の筋道が幽玄で補足しがたいところがあったりなんかしたら、大いに責めとがめなければならない。しかし、詩の方では、感じが曖昧模糊としてさえいなければ、論理の筋道はいささかぼんやりしていて隅々まで明白でなくても、さほどとがめられないのである。ちょうど、地図は正確明瞭でなければ不可だが、絵は雲・霧が山川を覆うところを描いても差し支えない、というのと同じ道理である。

 さらに一つ例を挙げてみるならば、美術的文章の方では擬古文というのも許される。すなわち、場合によっては荘重でありたいという希望から、非常に古い言語や文字や文法を用いて書いても、それはそのやり方で成功さえしていれば、別にとがめ立てはしないのである。しかし、実用的文章の方では擬古文は不可としなければならない。『書経』や『左伝』の調子で数学の本を書かれたり、『源氏物語』や『伊勢物語』のような文体で商業視察の報告を書かれたりしたら、実に困ることになるから、絶対に排斥しなければならない。「鄭伯、段に鄢に克つ」というような調子や、「……あんなれ」「……べかんめる」などという古くさい文体を持ち出されたりした日には、実際世界の用事は果たせない。それゆえに、美術的文章の方では擬古文を許しても、実用的文章の方では擬古文は許せない。

 そこで、実用的文章と美術的文章の二種類の文章を一緒に論じることはできない、という結論になる。しかし、この事実を無視して、ただ一つの「文章」という言葉なんだから、文章とさえいえば同じもののように見なしてしまって、それでいて修辞法や作文法を教えるなどと言っているものがいるのは、本当に大づかみの議論で、詳細を尽くしていないと思われる。

 つまり、同じ定規をもって取り扱うことのできない、まるで異なった性質のものを、一つの定規で律しようというのは、元来無理である。

 古来、このことを無視して文章を論じたり、あるいは作文法を教えたりしているのは、たとえば兵士と農夫とは志すところがおのおの異なっているのに、二者を混同して論じたり教えたりするようなもので、不合理であることは言うまでもない。田んぼで耕し、収穫するときの態度と、戦場においてかけずり回るときの態度を一緒にすることはできない。鋤をとって土をいじる道と、剣・戟を振るったり銃砲を扱ったりする道とは、その精神も異なっていれば、手段も違っている。作業も違っていれば、希望するものも違っている。それを同一にしてしまって、「田んぼを耕す動作が遅い。戦場で駆けるように敏捷にすべきである」などといったところで、それは気が狂ったような言葉であるし、小銃の持ち方を教えるのに「鋤の持ち方のようにすべきだ」と言ったならば、それも気の違った言葉であろう。

 で、そんな馬鹿げたことは誰も言ったりしない。しかし、文章ではちょうどそれと同じような論じ方や教え方をしていて、それでも不思議に思っていないのが世間の常である。習慣が長くなると何ごとも疑わないものであるが、美術的文章と実用的文章を同列に論じたり教えたりするようなのは、実に不合理である。

文章の二種(A:実用的文章 B:美術的文章)

 文章というものの全体を仮に大別すれば二つになるようである。二つとは何だろうか?

 まず一つは実用的な文章である。そしてもう一つは美術的な文章である。

 実用的な文章というのはどういうものだろうか? 実用文章というのは、すなわち、実世間で実際に役立って、何らかの任務を果たすものをいうのである。例を挙げていって見れば、商業上の往復照会の文書であるとか、調査報告の文書であるとか、商品の説明であるとか広告であるとか、売買その他の契約であるとか、あるいはまた社交上の慶弔の文であるとか、種々雑多な用事の書簡であるとか、あるいはまた学術上の論説であるとか記録であるとか弁難であるとか、あるいはまた政治上の意見の発表であるとか、批評の応答であるとか、何だかんだと際限もないほど多種類であるが、要するに、短いものは電報や受領証の簡単なのから、長いのは科学上や宗教上や政治上の大著述に至るまで、すべて美術的であることを目的としない文章、すなわち実用に供される文章を指して、実用文章というのである。

 美術的文章というとどういうものだろうか? すなわち詩であるとか歌であるとか、小説であるとか戯曲であるとか、叙景または叙情の詩的散文であるとか、すべて世の実際の要務に対して直接には関わらない文章を指していうのである。これらの文章は間接には実際に世間とも接するが、直接には実際に世間と接触しないものであって、手近な例を挙げれば、和歌や俳句が受領書や電報のように実際の役に立つものではないことでもわかる。

 が、それならば、この美術的文章はすべてまったく世の役に立たないものであるかというと、もちろんそうではない。人の世にとっては、やはり実用的文章同様に重要な位置を占めているものである。ただ、これらの文章はそのもともとの性質として、人に対して虚しい感じ、つまり美感を得させるのを目的として存在しているものである。直接に、実世間の実際上に何らかの任務を帯びて使われている文章ではないのである。

文章は論じにくい

 文章というものは、その功は広大で火が燃えるように盛んなものであり、その徳は深く厚く悠久な、実に人間のなすことの中でも一つの大事といっていいものである。で、そういう素晴らしいものであるから、文章をわが心のままに書きこなそうということは、なかなか容易なことではない。まして文章の批判や談論をしようとするのは、いよいよもって難しいことである。

 明の王弇州((王弇州【王世貞】明の学者・詩人。字は元美。号は弇州山人。江蘇の人。李攀竜と共に古文辞を唱道、文は西漢、詩は盛唐を模範とした。著「弇州山人四部稿」「弇山堂別集」など。(1526~1590) ))は、学問もあれば才識もあった人で、欧陽永叔((欧陽永叔【欧陽脩】北宋の政治家・学者。江西廬陵の人。字は永叔。号は酔翁・六一居士。諡は文忠。唐宋八大家の一。仁宗・英宗・神宗に仕え、王安石の新法に反対して引退。著「文忠集」「新唐書」「新五代史」「集古録」「毛詩本義」など。(1007~1072) ))を罵っては「仏教の教えも知らず、書経も知らず、詩経も知らない」とけなしたり、黄山谷((黄山谷【黄庭堅】北宋の詩人。字は魯直、山谷・涪翁と号す。江西の人。江西詩派の祖。師の蘇軾とともに蘇黄と称され、草書にも秀でた。著「山谷詩集」。(1045~1105) ))をあざけっては「小乗とするにもたらず、これは外道でしかない」とバカにしたり、蘇東坡(子瞻)((蘇東坡【蘇軾】北宋の詩人・文章家。唐宋八家の一。洵の子。轍の兄。字は子瞻、号は東坡(居士)。大蘇と称される。王安石と合わず地方官を歴任、のち礼部尚書に至る。新法党に陥れられて瓊州・恵州に貶謫。書画をも能くした。諡は文忠。著「赤壁賦」「東坡詞」のほかに「東坡志林」など。(1036~1101) ))を評しては、「子瞻の文を読めば才能があるのはわかるが、書を読んでいないようにみえる。子瞻の詩を読めば学識があるのはわかるが、しかしものすごく才能がない者のようにみえる」といって軽んじたりしたくらいの人であった。

 ところがその弇州が『芸苑巵言』四巻を著わして、盛んに文章を論じて威張りまわしたのはよかったけれども、晩年に及んで李西涯という人の『楽府』に序文を書いた中では、『巵言』を著わして批判談論をあえてしたことを後悔していたり、死に臨んだときには手に蘇東坡の文集を捨てなかったという事実を残していたりする。

 弇州の学問才識をもってしてさえそうなのであるから、不学短才の自分などが文章を論じたり何ぞするのは、力の乏しい者が力業をあえてするようなもので、はなはだもっておぼつかないことであり、さらにまた僭越限りないことである。

 しかし、自分は今、このようなことを思っている。なるほど、力の乏しい者が力士の真似はできないけれども、力の乏しい者でも力相応のものは持ち上げることができるというのは事実である。力が乏しければ、一俵の米さえも持ち上げることができない。しかし、一俵の何分の一かの三升とか五升とかいう量の米であれば、危うげなく持ち上げることができる。

 この道理によって、文章という素晴らしい大きなもの全体を批判したり論じたりしようとするのではなく、文章の何分の一かに当たる一部分を議論しようと考えるのであれば、これに耐えることができるかもしれない。自分は、今まさに文章全体を議論しようとは考えていない。文章の中の一小区画について議論しようとしているのである。

 と、こう思っていて、そしてこれを無理とは思わないので、この企てを放棄しようとは思わないのである。

フォトン・ベルトは天文学的にありえない

 フォトン・ベルトについてシカゴ大学天文学部に在籍する天文学者が詳細に矛盾を指摘したデータがありました。ニュースグループでNanomiusという人がフォトン・ベルトについての質問をしたのに対する徹底的な回答です。1995年2月の「The infamous photon belt」という長い投稿のほとんどを訳してみました。

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フォトン・ベルト物語――世界最初のフォトン・ベルト文献

 フォトン・ベルト神話は、一人の女子大学生の記事から始まった。

 1981年、オーストラリアのUFO研究会誌に掲載されたシャーリー・ケンプ(Shirley Kemp)の『フォトン・ベルト物語(The Photon Belt Story)』という記事である。それは10年後の1991年、オーストラリアの有名な神秘系雑紙「ネクサス」(オーストラリアの「ムー」といった方がわかりやすいか)に再録され、そこからフォトン・ベルト神話が広まっていったのだった。

 今回、フォトン・ベルト神話の「原典」ともいえる「フォトン・ベルト物語」を全訳したい。原文はここここにある。

 そして、この記事についての批判「プレアデスの事実と虚構――フォトン・ベルト神話を打ち砕く」も必ず合わせてお読みいただきたい。

★追記:このサイトでの一連のフォトン・ベルト関連記事は、すべて「フォトン・ベルトは存在しない」ということを主張するためのものです。誤解なきように願います。

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「塞翁が馬」と「白い子牛」

 「塞翁が馬」(人間万事塞翁が馬)という言葉はよく知られています。ところが、この故事にはもう一つ同趣旨で対になる「白い子牛の話」があった――ということが、江戸時代の作家・滝沢馬琴の『燕石雑志』というエッセイに載っていました。以下、この項目を全文訳してみます。

 なお、『燕石雑志』は面白いので、今後も取り上げるつもりです。

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@(アットマーク)の歴史と呼び名

「@(日本ではアットマーク)」という記号についての起源について、少し調べてみた結果をまとめておく。アットマークというのは日本だけの呼称で、世界的にはまるで通用しないようだ。その歴史(そもそもの発端――中世と、電子メールでの使用)ならびに呼び方について、ロバート・フルフォード氏のコラムに詳しく書かれていたので、訳してみた。

※この記事は2004年のものです。最新の情報はアットマーク - 閾ペディアことのはを参照ください。

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