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No.107:世田谷の八幡宮の謎(4終)自由が丘編

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◎世田谷区北部の八幡宮、最後の一つ

前回まで「世田谷の八幡宮のうち、吉良氏にゆかりのある八幡神社は、丘 の南斜面にあるものが多い」ということを実際に回っていきました。

  • 南☆○宇佐神社:創建年代不明:源頼家?八幡塚古墳あり
  • 東☆△駒留八幡神社:1308:北条成願
  • 東★○北沢八幡神社:文明年間(1469~87):吉良氏
  • 西☆×勝利八幡神社:1026or16世紀:鈴木氏?
  • 東★○世田谷八幡宮:1587:吉良頼康
  • 東★○代田八幡神社:1591:吉良家家人七家
  • 東★○太子堂八幡神社:文禄年間(1592~96)
  • 南★○田園調布八幡神社:1590/1624-1644:北条氏照の旧臣/奥沢城入口
  • 西☆×八幡山の八幡社:未詳
  • 西☆×粕谷の八幡神社:未詳

百パーセントではないものの、かなりの法則性が見られるように思われま す。そこで、2011年1月1日、初詣を兼ねて世田谷区八幡神社最後の一つ、 自由が丘・奥沢の奥沢神社を目指すこととしました。

ちなみに、事前に軽く調べたところでは、奥沢神社も吉良氏系の八幡神社。 さてどうなりますやら。

今回の写真はこちら。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No107/
どうも最近ははてなフォトライフがちゃんと「写真の撮影順」に並べてく れなくなってきたので困ります。前後混乱していますがご了承ください。 (写真のEXIF順にきちんと並べてくれてフォルダ単位で管理できるサイト があればぜひご教示ください)

今回歩いたルートはこちら。

◎九品仏(九品山浄真寺)

渋谷から自由が丘駅まで乗って、それから通称「九品仏」こと浄真寺に向 かいます。ここに立ち寄ろうと思ったのは、今まで行ったことのない有名 なお寺だったというのもありますが、このお寺の場所が吉良頼康の建てた 吉良氏の城だったという歴史があったのが大きな理由です。

そう、田園調布八幡神社が「奥沢城の入り口に当たる川港の岬」にあった という話がありました。田園調布八幡の港は、九品仏の奥沢城と深い関係 があったのです。世田谷吉良氏の旧跡として、やはりここは訪ねずにはい られません。

小田原の北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた後は廃城となり、その後江戸時代 に入って浄土宗の寺が建てられました。

最寄り駅は「九品仏駅」ですが、電車で一駅の近いところにあるので自由 が丘駅から歩いて行くことにします。

元日の東京は人口が減っているとはいえ、初詣のスポットにはやはり人が 多いようです。お寺の境内に入るとやはり賑わっていました。

九品仏というのは、九体の阿弥陀仏が名称の由来です。悟りに至りやすい 人間からそうでない人間まで、上から「上品(じょうぼん)」「中品(ち ゅうぼん)」「下品(げぼん)」に分け、さらにそれぞれを上生・中生・ 下生の九段階に分けます。つまり、上品上生・上品中生・上品下生・中品 上生・中品中生・中品下生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生の 「九品(くほん)」です。

上品上生は仏教の教えをしっかり守っている聖人レベル、下品下生といえ ば地獄行き間違いなしの極悪人というわけです。世間で言う善人レベルが 中品下生あたり。

そして、阿弥陀仏はその九品それぞれをすべて救われる、という浄土教の 教えに従って、それを九体の阿弥陀仏で表現したのが九品仏ということに なります。

ちなみに、私が「九品仏」に初めて出合ったのは子供のころ、奈良から京 都府に入ってすぐのところにある「浄瑠璃寺」(京都府木津川市加茂町) でした。そこのお坊さんの説明が非常にわかりやすく、この九品の説明も 非常に印象に残っています。ちなみに、阿弥陀仏の浄土は西にあるとされ ます(いわゆる「西方極楽浄土」)ので、九品の阿弥陀仏は西側に東を向 いて並んでいます。浄瑠璃寺も九品仏浄真寺もその点は同じ。

浄瑠璃寺の場合は、西に九体阿弥陀、中央に池があって、東に薬師如来が います。薬師如来の浄土が東方浄瑠璃浄土。薬師如来に送り出していただ いて、こちらの岸(此岸)から煩悩の海を超えて向こうの岸(彼岸)まで 渡れば、そこには阿弥陀如来の西方極楽浄土が待っている、という教えを、 浄瑠璃寺は建物の構造・配置で表現していたのです。

自由が丘の九品仏は、中央が池ではなく庭園っぽく仕立てられており、そ して東側の「本尊」が釈迦牟尼仏(お釈迦様)でした。そして、参詣者は ほとんどがこの金色の本尊釈迦如来に向かって並んでいました。一方、九 品仏阿弥陀如来の方にはあまり人が並んでいないのがちょっと気になった ところです。

九品仏の釈迦像

私はといえば、行列が長いので後ろから軽く釈迦如来に挨拶した後、九品 阿弥陀仏をお参りしていきました。ここは釈迦如来に背を向けて押し出し てもらい、阿弥陀仏に引っ張り上げていただこうというのが、本来の伽藍 配置の趣旨だと思うのですが……。

さて、この九品仏浄真寺の境内の端には、土が盛られたところがあります。 これが実は奥沢城の土塁の跡とのことです。しばし昔に思いを馳せます。

◎奥沢神社

家を出る時間がやや遅かったので、御朱印だけいただいて先を急ぐことに します。目指すは世田谷の八幡神社最後の一つ、奥沢神社。神社名に「八 幡」の文字はありませんが、メインの祭神が八幡神であります。

神社に向かうまでの道筋で、結構高低差があることに気づきます。駅のす ぐ近くに谷底があったり……。奥沢城は台地にあったことがわかります。 では、奥沢神社の周辺はどうでしょうか。

奥沢神社

住宅地の中にある奥沢神社に到着すると、こちらはさらに長い列ができて いました。並ぶのも大変なので、参拝は後日ということにしてぐるりと境 内を回ってみます。

奥澤神社
世田谷城主吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城を築くにあたり守護神として 勧請したと伝えられる。
例祭の九月十四日・十五日に、江戸中期より伝えられている「厄除の大 蛇」の特殊神事が行われ、境内の「八幡小学校発祥の地」の碑は、かつ て八幡小学校校舎があったからである。

この吉良氏とはおなじみ吉良頼康のようです。奥沢城の建築が「天文~永 禄年間頃」とされています。天文は1532~1555、永禄は1558~1570年です ので、1587年の世田谷八幡宮よりわずかに古いことが推測されます。

奥沢城の守護神ということで奥沢城に近い場所が選ばれたのでしょう。で は、本題。この神社の地形的な立地は?

少なくとも周囲は平坦です。「丘の南側」かどうか以前に「斜面」にはあ りません。

奥沢神社から出て少し南へ歩くと、数分もかからないところに奥沢駅があ ります。その駅の向こう側はなだらかな降り斜面になっていますが、ちょ っと距離が離れています。

一方、奥沢神社から北側に向かうと、かなり角度のある下り坂がありまし た。そして、その先には「九品仏川緑道」が東西に流れています。つまり、 奥沢神社は東西に延びた丘の上にあり、北の九品仏川(九品仏ができる前 にはそんな名前ではなかったとおもわれますが)の南にある、つまり「丘 の北斜面近く」にあるということです。

残念ながら「吉良氏八幡宮南斜面の法則」は、最後の最後で裏切られるこ ととなりました。

◎奥沢神社の弁天さん

参拝の列が並んでいる本殿を横目に境内の奥へ進むと、興味深いものがあ りました。それは弁天さんの岩室と「八幡小学校」の碑でした。

弁天さんの岩室……有料版のころからお読みの方は、1年前の記述を思い 出されるでしょうか。私は昨年の正月に小石川七福神と深川七福神を訪問 したのですが、深川の方の冬木弁天堂の裏に小さな岩室がありました。ま た、小石川の徳雲寺の弁財天と極楽水弁財天(このルートは弁財天が二箇 所あります)はいずれも祀られているのが蛇神でした。蛇神信仰というの は実は日本では古くからあるもので、奈良の三輪神社も蛇の神様、三輪山 の円錐形も蛇のとぐろを想起させた可能性があるという説もあります。 (この辺は星野之宣『宗像教授』『神南火』シリーズでも何度か取り上げ られているネタです)。

奥沢神社弁天

そして、この奥沢神社最大の神事が「大蛇お練り神事」と呼ばれていると いうのです。説明板によれば以下のとおり。

 江戸時代の中頃、奥沢の地に疫病が流行して、病に倒れる者が多かっ たとき、ある夜この村の名主の夢枕に八幡大神が現われ、『藁で作った 大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させると良い』というお告げがあっあとい う。早速新藁で大きな蛇を作り村内を巡行させたところ、たちまちに流 行疫病が治ったという言い伝えがあり、これが厄除の大蛇として鳥居に からまり、大蛇お練りとして現在に伝えられている。蛇の形のものを作 ってかつぎ歩く祭りは、全国的にあるが、都内では珍しい祭りである。 蛇の形(水神の意)をかつぎ歩くことによって農耕に必要な水の確保や 生産の順調なることを予祝する行事にほかならない。
 奥沢神社では毎年九月の第一日曜日に氏子が集まり、大蛇づくりが行 われる。これは社殿に安置され、社殿にあった昨年の大蛇を鳥居にかけ られる。そして九月十四日の大祭に大蛇お練りが行われる。

ここで憶測してみます。もしかしたら、この八幡神社はもともと蛇神の社 があったところに建てられたのではないか。丘の上の水源に水神を祀って いた。奥沢城建造に際してその場所に八幡神社が置かれた。その後、江戸 時代に入って再び水神信仰が復活してきたので、ストーリーとして八幡神 のお告げなどが語られるようになった。その水神=蛇神がやがて江戸の流 行神である弁財天とされるようになったのではないか……と(本来、弁財 天は神道ではなく、インド出身の仏教の天部衆です)。

この憶測は、吉良氏系神社なのに丘の南斜面にないこと、八幡神よりも蛇 神信仰の方がメインのように思われることからこじつけたもので、何の歴 史的根拠もありませんが、そういう史実が存在したとしても不思議ではな いと思ったりもしています。

また、この近所(田園調布に近い方向)に「八幡小学校」というのがある のが気になっていたのですが、この八幡という名称もやはり奥沢八幡神社 に由来していたことがわかり、腑に落ちた感じがあります。

◎世田谷区内の八幡神社総覧

というわけで、もう一度改めて八幡神社の一覧を完成させてみましょう... ...いや、その前に一つ補足しておかねばなりません。田園調布八幡神社の ことです。今まで「丘の南斜面」と書いていましたが、もう一度チェック してみるとこれは北東から南西に下る斜面でした。というわけで、△にラ ンクダウンしておきたいと思います。

  • 南☆○宇佐神社:創建年代不明:源頼家?八幡塚古墳あり
  • 東☆△駒留八幡神社:1308:北条成願
  • 東★○北沢八幡神社:文明年間(1469~87):吉良氏(吉良成高?)
  • 西☆×勝利八幡神社:1026or16世紀:鈴木氏?
  • 南★×奥沢神社:1532~1570:吉良頼康/大平氏
  • 東★○世田谷八幡宮:1587:吉良頼康
  • 東★○代田八幡神社:1591:吉良家家人七家
  • 東★○太子堂八幡神社:文禄年間(1592~96):未詳
  • 南★△田園調布八幡神社:1590/1624-1644:北条氏照の旧臣/奥沢城入口
  • 西☆×八幡山の八幡社:未詳
  • 西☆×粕谷の八幡神社:未詳

八幡塚古墳の跡に建てられたと思われる宇佐神社を除けば、○印(すなわ ち世田谷区東部にある丘の南斜面の八幡神社)はすべて吉良系ということ になります。つまり、世田谷の吉良家はほとんどの八幡神社を丘の南麓に 建てた(例外は奥沢神社のみ)と結論づけてよさそうです。

その例外の奥沢神社はむしろ蛇神信仰が強く、宇佐神社のように古くから の霊場であった可能性を捨てきれません(中沢新一のアースダイバー的に は、田園調布は「岬の突端」の神社であり、この三つはセットにできるの かもしれません)。

このあと熊野神社に回ったのですが、今回はかなり長くなりましたのでこ の辺で。


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