《松永英明のゲニウス・ロキ探索――「場所の記憶」「都市の歴史」を歩く、考える 》はまぐまぐで発行されているメールマガジンです。

No.113:南洋堂書店「東京の微地形模型」と上野「東叡山」

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このメルマガでも告知しておりましたが、昨年末より「グリーンライン下北沢」すなわち小田急線地下化工事によって生まれる30m×2.2kmの「あとち」についてのアイデア・提案を提出しようといろいろ資料を集めたりしていました。

わたしは当然「場所の歴史」を重視しますから、縄文・弥生以来の下北沢周辺地域の歴史を踏まえ、旧下北沢村・代田村の範囲の地形や歴史などを調べた上でその歴史を継承するような「あとち」案を出したいと考えました。

その調査の途中で、このメルマガで謎として提示してきたことが一つ、判明したように思われます。

その「謎」とは、本誌104号から107号まで追いかけてきた、「世田谷区東部の八幡神社は、なぜ丘の南斜面にあるのか」ということです。その理由を解明するには、実はいくつかの前提が必要でした。

その前提の一つは、昨年8月に神田神保町の南洋堂書店で開催された「東京の微地形模型展」と、そこで聞いた話です。それが、今回調べた「下北沢村・代田村の歴史」特に両村の字名の変遷と組み合わさったとき、世田谷区東部の八幡神社がなぜ丘の南斜面にあるかという謎が解けたのです。

その謎解きの結論については少々お待ちいただくとして、今回は「東京の微地形模型展」の話を(半年のタイムラグで)いたしましょう。

実は、この微地形模型展では八幡神社の件とは別の謎が一つ解けたように思ったのです。

東京の微地形模型展

TOPOGRAPHY MODEL TOKYO

2011年7月23日~8月27日に神田神保町の南洋堂にて開催された「東京の微地形模型展」には、開催終了前日の26日、閉店1時間ほど前に行ってそれから閉店時間までずっと模型を眺めていました。

当日はカメラを持っていかなかったので(痛恨!)携帯で撮影した写真が以下のとおりです。
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No113/?sort=old

東京の皇居(=江戸城)を中心とした地形模型で、建物ではなく地形そのものの高低が見事に表現されています。木を貼り合わせたものを削ったとのことで、その自然な色の濃淡によって見やすく、また美しい地形模型でありました。

模型を横から見るとこんな感じの断面になっています。
20110826183400

たとえば、皇居を東の方から眺めた写真がこれです。
20110826180800
東側の入り江を堀として利用する一方、北や西の内堀は台地を掘り込んでいることがよくわかります。

左の谷が渋谷川水系、右の谷が目黒川水系。(北西方面からの撮影)山手線は渋谷駅から目黒駅に行く途中で、渋谷川水系から目黒川水系へと分水嶺を超えて進んでいきます。
20110826184400
渋谷川と目黒川の分水嶺は近いうちに歩いてみたいと思っています。

こうやって地形そのものを実物(3D)で見ると、地図で眺めているのとはまた違ったものが見えてくるように思われます。

上野が比叡山なのに不忍池が西側?

さて、この模型を見ていてふと気づいたことがありました。今、上野公園のある上野の丘(忍岡=しのぶがおか)の東側、つまり下谷・入谷から千束・浅草方面にかけて広い低地が広がっているということです。

20110826185800

この写真は東側からのものですが、下に流れる広い川が隅田川、画面上の右側に長方形に伸びる丘が上野の丘(忍岡)。栓抜きにも見える三角形の通路のある池が不忍池、その向こうが向丘。忍岡と向丘の間の谷が谷中・根津・千駄木の「谷根千」にあたります。

そして、上野の丘から手前、隅田川までの間が広い低地となっていることがわかります。ちょうど模型では少し濃い色になっており、その一帯が広い池にも見えてきます。

あれ、上野の丘の東に池?

上野とセットの池といえば西の不忍池だけだと思っていましたが、そういえば浅草周辺は低湿地帯だったはず、と思い至り、そして昔からの疑問と結びつきました。

それは上野の東叡山寛永寺にまつわる話です。天海僧正が江戸城の北東に位置するこの地に「東叡山」すなわち「東の比叡山」を置くことで、京の都の北東にある比叡山を模した、という話が(どこまで裏付けられるかは別にして)広く伝えられています。そして、中の島に弁天様を祀っている不忍池は琵琶湖(と竹生島)を模したのだ、と。

しかし、わたしはどうしてもそこに疑問を感じずにはいられませんでした。一つは不忍池は忍岡の「西」にあり、比叡山の「東」にある琵琶湖とはまるで逆位置になること。もう一つは、不忍池はかなり小さく、比叡山の東側に広大に広がる琵琶湖と比べるとかなり見劣りがすること。

また、京都の清水寺になぞらえたとされる清水観音堂は丘の南西斜面にあります。比叡山からはかなり離れているものの、京都の清水寺も比叡山よりは南にあり、また東山の西斜面にあるわけですから、これも方角はおおよそ合っています。しかし、さらにその清水観音堂の「西」に、東にあるはずの琵琶湖を模した不忍池があるとすれば、これは詰めが甘いと言わざるを得ません。

その疑問が一気に解けるような気がしたのです。つまり、上野の丘を比叡山に見立てたのだとすれば、その東側の下谷・入谷・千束・浅草あたりの低湿地帯が「東の琵琶湖」だったのではないか――と考えれば、非常につじつまが合うように思われます。

この点について、帰宅してから調べ直してみると、まさにその直感を裏付けるような情報が次々と出てきました。

姫ヶ池と千束池

ウィキペディアの「下谷」の項には、こんな記述があります。

1590年 領地替えで江戸に移った徳川家康により姫ヶ池、千束池が埋め立てられる。 寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄える。

寛永寺の創建は1625年なので、家康の江戸入りからは35年の歳月が経っていますが、この地域にかつて二つの池があったことは記憶に残っていたはずです。

姫ヶ池は上野の南東、今の新御徒町から南へ下がった小島一丁目・鳥越一丁目あたりから蔵前に伸びていた「三味線堀」がその名残だったといいます。また、新吉原遊廓のあった一帯が今の「千束四丁目」ですが、この千束という地名はおそらく千束池の記憶をとどめているのでしょう。

社団法人東京都地質調査業協会
技術ノート(No.39)特集:東京の地名と地形 平成18年11月
http://www.kanto-geo.or.jp/tokyo_note/No39_2.pdf

このPDFファイルの26ページの図26では、千束池と姫ヶ池がつながって一つの大きな池にも見えます。まさにこれは江戸城から見て「東の琵琶湖」と呼ぶにふさわしい規模の池だといえるでしょう。27ページの図30には旧千束池の範囲が明示されています。

隅田川西側の当時の浅草区や下谷区であった低地には、 現在の浅草公園の西側から吉原にかけて「千束池」と呼ばれる巨大な沼地があった。 この沼地は深さが20m以上もある深いものであったとの推定もあり、 浅草区北部や下谷区北部での地震・揺れの大きい地域に関連していると思われる。 現在、台東区千束はこの沼地のほぼ中央に位置し、 かつての沼の名称を継承した町名となっている。

つまり、家康が江戸にやってきた時代には浅草の西には大きな池があり、それが埋め立てられた後も「浅草田んぼ」というような低湿地帯が残っていました。この広大な「山の東の低湿地・池」があるがゆえに、上野の丘を東の比叡山に見立てることが可能になったのではないか、とも思うのです。

もう少し調べると、この一帯の「低湿地」ぶりがよくわかります。

入谷
http://www.maroon.dti.ne.jp/~satton/taitou-imamukasi/iriya.html

昔、この入谷一帯は千束池の底であった。 天正の頃(1573~92)、鳥越村民がその千束池を埋立てて田圃にしたという。 江戸時代を通じて、大部分が田圃で、殆ど変化もなかったという。

なお、寛永寺は天海が二代将軍秀忠から賜った地に創建されたもので、藤堂高虎・津軽信枚・堀直寄の三大名の下屋敷だったものをわざわざ天海に賜ったものです。それはまさに「東の比叡山」を実現するためにこの場所がどうしても必要だったからなのでしょう。

浅草の弁財天

さて、千束池が「東の琵琶湖」だとすれば、必要不可欠なのは弁天様です。琵琶湖の竹生島の弁才天は奈良時代に聖武天皇の命により作られたもので、湖の交通を守る水の神として祀られたのがはじまりです。

なお、竹生島のウェブサイトによりますと、竹生島の観音堂と唐門は「豊臣秀頼の名を受け普請奉行の片桐且元が1603年に移築した」、重要文化財の舟廊下は「豊臣秀吉の御座船日本丸を利用して作られた」と記されており、豊臣氏が深く関わったことが伺えます。

では、不忍池ではなく上野の東の浅草近辺に弁才天は? 有名な弁天様がおりました。浅草寺弁天堂にいまも祭られている白髪の「老女弁財天」です。これは由緒書きには「小田原北条氏の信仰が篤かった」と紹介されています。とすれば、家康が江戸城に入る前から老女弁財天は浅草で信仰対象となっていたといえるでしょう。

もう一つ、千束三丁目の吉原神社に弁天様が祀られていますが、これは新吉原遊廓が作られたときに土地造成でできた弁天池に祀られたものということで、寛永寺よりは後ということになります。

すなわち、千束池を東の琵琶湖に見立てるならば、東の竹生島弁才天に当たるのは浅草老女弁財天ということになるでしょう。

ただ、この対比は「忍岡=東叡山」と見立てるまではよかったものの、すでに埋め立てられた千束池では竹生島を再現するのは難しかったのではないでしょうか。そこで、方角は異なるものの、池として残っている不忍池に中の島を作り、そこを第二の東の竹生島として弁天様を置いた――というストーリーを想定してみたいと思うのです。

もちろん、この想定には今のところ文献的な裏付けはありません。しかし、「千束池(の名残の低地)こそが東の琵琶湖に見立てられた」と考えれば、あえてこの場所を選んだ天海と秀忠の思惑が見えてくるようにも思えるのです。

「霜柱理論」

さて、この模型を見に来ていた方の雑談の中で、気になる言葉を耳にしました。それは「霜柱理論」というものです。これこそ、この模型と下北沢の地形を結びつけ、ひいては「世田谷東部の丘の南斜面の八幡神社」の謎の解明につながる重要なキーワードだったのです。

以下、次号。


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