「わかる」と一致するもの

「知能指数が高い州は大統領選で民主党ケリーに投票」データの嘘を徹底解明

 「DynamiteTV【海外ボツ!News】:知能指数と政治の関係」で紹介されたことがきっかけになって、日本でも「平均知能指数と大統領選挙の結果を照らし合わせた表」(出典はここ→IQ and Politics)が出回り、「ブッシュに投票する共和党は頭が悪い」という印象を裏付けるものとなっている。

 しかし、この情報は嘘だ。「Richstyles!: 米大統領選の投票者とIQの相関はデマ情報」で鋭く指摘されている。

 先日、木村剛氏が中越地震でのマスコミの振る舞いについての「噂」情報を、検証することなく「真実」としてブログに書いた騒動があったが(木村剛の「マスメディアへの対抗意識」は時代錯誤。中越地震マスゴミ批判記事を検証する参照のこと)、今回のブログ界でのデマ流布と共通するのは「自説を強化する情報は検証することなく、真実・事実として広めてしまう」傾向があるということだ。木村剛氏にとって、中越地震被災地でのマスコミの傍若無人な振る舞いを描いた情報は「おいしい」ものだったし、「ブッシュに投票するなんて頭悪いんじゃないの?」と思っている人(まあ、私もそう思ってるんだが)は「民主党に投票した州はIQが高い」という表を見ると「やっぱり」と思ってしまう。

 そこで「ちょっと待てよ」と思えるかどうかが「メディアリテラシー」を発揮できるかどうかの境目だ。特に自分にとって都合のいい情報、おいしい情報のときほど疑ってかかる必要がある(都合の悪い情報、嫌な情報ならどうしたってあら探ししたくなるものだからね)。

 今回は、Richstyles!さんで紹介されていた「検証サイト」のブログ情報を全訳してみることとする。

 非常に大量のデータであるが、じっくり読んでいただきたい……というところで最初に警告しておく。読めばわかるとおり、この著者Steve Sailer氏は明らかに共和党支持的論調でこの検証を行なっている。つまり「間違ってたじゃん!」とこの情報を真実として流すならば、今度は共和党のプロパガンダの片棒を担ぐことになってしまうわけだ。さあ、あなたのメディアリテラシーはいかが?

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木村剛の「マスメディアへの対抗意識」は時代錯誤。中越地震マスゴミ批判記事を検証する

 「週刊!木村剛」の木村剛氏がこのところマスメディアへの対抗意識を燃やしている。しかし、これは明らかに時代錯誤なものであり、とうてい共感しえないものである。

 その最大の原因は、木村剛氏が「マスメディアVS民衆」という対立構造を図式として有していること。これは一昔前の学生運動の「権力者VS民衆」という構図と何ら変わることのない「自らを弱者と位置づけ、仮想敵との闘争を主目的とする」という時代錯誤な発想としか思えないのである。

 私自身もマスメディア報道を信用しているわけではなく、その被害というものにも遭ったことがある。しかし、「マスメディアVS民衆ブログ」という対立軸を中心に据え、「マスゴミに対するブログ軍団の橋頭堡」(週刊!木村剛:これが新潟県中越地震の真実だ!)というような意識をもっているということ自体が「時代錯誤」と思えてならないのである。

 マスメディアへの対抗意識でブログをやるということは、必然的にマスメディアに寄生、あるいは少なくともマスメディアを常に意識する立場にならざるを得ないということである。つまり、「アンチ・マスメディア」はマスメディアなくして存在し得ない。そして、マスメディアと同じ土俵で「闘い」続けなければならなくなる。

 我々に必要なのは、マスメディアを敵視し、対抗し、張り合うすることではない。ただひたすら淡々と、マスメディアが流そうと流すまいと、自分の見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことを報じ、そして他の人の情報を検証・取捨選択して、真実に迫ることである。対抗ではなく、ただひたすら淡々と、本当の意味でのジャーナリズムを実践する。それによってのみ、ブログはマスメディアを「凌駕」する存在、あるいはもう一つのメディアとなりえるのである。

 もちろん、「週刊!木村剛」が「マスメディアのあら探しブログ」にとどまりたいのであれば話は別であるが。

 以下、一連の木村剛記事について検証してみたい。

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文章の分類表

 文章というものはおのずから大別されて二種となる。その一つは実用性を主とするもので、他の一つは美感に訴えることを主とするものである。理解しやすいように、その概略を表にしてみれば、下に記したとおりである。

 この表を見ればわかることであるが、実用的文章の領域は実に広大なものである。宗教・法律・政治・軍事・科学・技術・生産・商業・文学・歴史・地理・社交における文章、すなわち人の世の文章のすべては、ただわずかに詩の一部分を除いてみな実用的文章である。

 しかし、世にはまた種々のものがあるものであって、実用的文章とも言いかねるが、詩とも言いかねるものがある。けれども、それらは深く論ずる必要もない。なぜかといえば、それは詩がまるでひどく失敗したものであるか、さもなければ、実は実用的文章に属すべきものなのに、たまたま変わった書き手の物好きによって奇妙な書き方をされたにすぎないものなのであるから。

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文章の二種(A:実用的文章 B:美術的文章)

 文章というものの全体を仮に大別すれば二つになるようである。二つとは何だろうか?

 まず一つは実用的な文章である。そしてもう一つは美術的な文章である。

 実用的な文章というのはどういうものだろうか? 実用文章というのは、すなわち、実世間で実際に役立って、何らかの任務を果たすものをいうのである。例を挙げていって見れば、商業上の往復照会の文書であるとか、調査報告の文書であるとか、商品の説明であるとか広告であるとか、売買その他の契約であるとか、あるいはまた社交上の慶弔の文であるとか、種々雑多な用事の書簡であるとか、あるいはまた学術上の論説であるとか記録であるとか弁難であるとか、あるいはまた政治上の意見の発表であるとか、批評の応答であるとか、何だかんだと際限もないほど多種類であるが、要するに、短いものは電報や受領証の簡単なのから、長いのは科学上や宗教上や政治上の大著述に至るまで、すべて美術的であることを目的としない文章、すなわち実用に供される文章を指して、実用文章というのである。

 美術的文章というとどういうものだろうか? すなわち詩であるとか歌であるとか、小説であるとか戯曲であるとか、叙景または叙情の詩的散文であるとか、すべて世の実際の要務に対して直接には関わらない文章を指していうのである。これらの文章は間接には実際に世間とも接するが、直接には実際に世間と接触しないものであって、手近な例を挙げれば、和歌や俳句が受領書や電報のように実際の役に立つものではないことでもわかる。

 が、それならば、この美術的文章はすべてまったく世の役に立たないものであるかというと、もちろんそうではない。人の世にとっては、やはり実用的文章同様に重要な位置を占めているものである。ただ、これらの文章はそのもともとの性質として、人に対して虚しい感じ、つまり美感を得させるのを目的として存在しているものである。直接に、実世間の実際上に何らかの任務を帯びて使われている文章ではないのである。

文章は論じにくい

 文章というものは、その功は広大で火が燃えるように盛んなものであり、その徳は深く厚く悠久な、実に人間のなすことの中でも一つの大事といっていいものである。で、そういう素晴らしいものであるから、文章をわが心のままに書きこなそうということは、なかなか容易なことではない。まして文章の批判や談論をしようとするのは、いよいよもって難しいことである。

 明の王弇州((王弇州【王世貞】明の学者・詩人。字は元美。号は弇州山人。江蘇の人。李攀竜と共に古文辞を唱道、文は西漢、詩は盛唐を模範とした。著「弇州山人四部稿」「弇山堂別集」など。(1526~1590) ))は、学問もあれば才識もあった人で、欧陽永叔((欧陽永叔【欧陽脩】北宋の政治家・学者。江西廬陵の人。字は永叔。号は酔翁・六一居士。諡は文忠。唐宋八大家の一。仁宗・英宗・神宗に仕え、王安石の新法に反対して引退。著「文忠集」「新唐書」「新五代史」「集古録」「毛詩本義」など。(1007~1072) ))を罵っては「仏教の教えも知らず、書経も知らず、詩経も知らない」とけなしたり、黄山谷((黄山谷【黄庭堅】北宋の詩人。字は魯直、山谷・涪翁と号す。江西の人。江西詩派の祖。師の蘇軾とともに蘇黄と称され、草書にも秀でた。著「山谷詩集」。(1045~1105) ))をあざけっては「小乗とするにもたらず、これは外道でしかない」とバカにしたり、蘇東坡(子瞻)((蘇東坡【蘇軾】北宋の詩人・文章家。唐宋八家の一。洵の子。轍の兄。字は子瞻、号は東坡(居士)。大蘇と称される。王安石と合わず地方官を歴任、のち礼部尚書に至る。新法党に陥れられて瓊州・恵州に貶謫。書画をも能くした。諡は文忠。著「赤壁賦」「東坡詞」のほかに「東坡志林」など。(1036~1101) ))を評しては、「子瞻の文を読めば才能があるのはわかるが、書を読んでいないようにみえる。子瞻の詩を読めば学識があるのはわかるが、しかしものすごく才能がない者のようにみえる」といって軽んじたりしたくらいの人であった。

 ところがその弇州が『芸苑巵言』四巻を著わして、盛んに文章を論じて威張りまわしたのはよかったけれども、晩年に及んで李西涯という人の『楽府』に序文を書いた中では、『巵言』を著わして批判談論をあえてしたことを後悔していたり、死に臨んだときには手に蘇東坡の文集を捨てなかったという事実を残していたりする。

 弇州の学問才識をもってしてさえそうなのであるから、不学短才の自分などが文章を論じたり何ぞするのは、力の乏しい者が力業をあえてするようなもので、はなはだもっておぼつかないことであり、さらにまた僭越限りないことである。

 しかし、自分は今、このようなことを思っている。なるほど、力の乏しい者が力士の真似はできないけれども、力の乏しい者でも力相応のものは持ち上げることができるというのは事実である。力が乏しければ、一俵の米さえも持ち上げることができない。しかし、一俵の何分の一かの三升とか五升とかいう量の米であれば、危うげなく持ち上げることができる。

 この道理によって、文章という素晴らしい大きなもの全体を批判したり論じたりしようとするのではなく、文章の何分の一かに当たる一部分を議論しようと考えるのであれば、これに耐えることができるかもしれない。自分は、今まさに文章全体を議論しようとは考えていない。文章の中の一小区画について議論しようとしているのである。

 と、こう思っていて、そしてこれを無理とは思わないので、この企てを放棄しようとは思わないのである。

徳保さんからのコメントに答える

趣味のWebデザイン」の徳保隆夫さんのところで、最近の記事3点についての記事が公開されている。コメントとトラックバックができないので、まとめてこちらからコメントしたい。

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サイト移転でGoogleから消滅。spam扱いされないSEO的引越し方法

 女子十二楽坊資料館の移転/ブラウザからのサイト構築で書いたように、「女子十二楽坊資料館」が新ドメインhttp://www.twelve-girls-band.info/ に移転したのが7月半ばのこと。だが、それ以降、新ドメインがなかなか検索にひっかからないどころか、検索から消えてしまうという恐ろしい現象が発生した。一体何が悪かったのか、そしてその対策は?

※この文章は2004年のものであり、情報としてはやや不足がありますので、追記してあります。最後まで読んでいただくようにお願いいたします。

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イラクのゲリラ軍を最新鋭米軍が掃討できない数学的な理由

 一つ前の記事「ランチェスターの法則は使えないときもある」の元記事では、以下の新聞コラムへのリンクがあった。

  • ABC News: Lanchester's Law: Too Few American Soldiers? 1/2/3

 ジョン・アレン・パウロス教授による数学的見地から見たイラク派兵問題である。ランチェスターの法則はどんな場合にも当てはまるものではないが、特にゲリラ戦になった場合、いかに米軍が最新鋭兵器を有していても、人数が圧倒的なイラク人ゲリラには苦戦するということが示されている。

 そこでこの記事を(またまた)全訳してみた。ちょっと古い記事だけど。

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ランチェスターの法則は使えないときもある

 兵力は集中させるべきである、という「ランチェスターの法則」は、ビジネスやロジスティックの世界でもよく紹介されている。これについて、少し前の記事なのだが、ゲームデザイナーのErnest Adams氏がゲーム製作関連情報サイト「Gamasutra.com」に寄稿した記事「数で標的をたたけ:ランチェスターの法則」が興味深いので、訳して紹介してみたい。

 ランチェスターの法則は現実の戦闘ではあまり役に立たないらしい。では、どういうときにこの理論が役に立つのか。アダムズ氏の分析は非常に明快である。

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フォトン・ベルト本の著者自身が実在を否定

フォトン・ベルトの真相―2012年12月22日のためのアセンションを書いたエハン・デラヴィ氏は自身のサイトReal Age Worldという音声データを公開している。そこでは、フォトン・ベルトの存在そのものは明確に否定されているのである。

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