「言葉」と一致するもの

長野の戦争遺跡訪問【6】松本・里山辺地下工場(2)

長野県松本市の里山辺地下工場跡を進む。懐中電灯がなければ完全に闇黒の世界だ。案内の平川豊志先生の話も聞くことができた。

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長野の戦争遺跡訪問【5】松本・里山辺地下工場(1)

6月29日は松本へ移動。あまり知られていないが、里山辺地下工場を訪ねた。こちらは松代大本営地下壕と違って普段は公開されておらず、非常に生々しいものであった。

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長野の戦争遺跡訪問【4】松代大本営・舞鶴山地下壕(2)

舞鶴山の御座所の向かいには、三種の神器を納める賢所が建設される予定だった。そして、この松代大本営の朝鮮人強制労働と慰安所についての詳しい話を聞く。

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文章で稼ぐ人間が、無償のブログも書く理由

萌え理論Blogのid:sirouto2さんが、ここのところ、プロのライターとして書きつつ、無償のブロガーとしても執筆することについていろいろと考察している。それに対して、ケータイ小説評論家・速水健朗(id:gotanda6)さんが応えている。いずれも、ブロガーでもあるライターとしてのわたしとしては、共感できる内容が書かれている。

このあたりで、「有償の表現と無償の表現」とか「表現したいことと商品価値の軋轢」みたいなものも含めて考察してみたいと思う。

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コメント・トラックバックは「原則として削除」というルールを掲げます

今、日本のブログでは、コメントやトラックバックについて、非常に開放的な方針を掲げて運用しているものが多い。特に、寄せられたコメントやトラックバックを削除することは、よほどのことがない限り禁忌とされがちである。下手に削除すると、「都合が悪いことを書かれたから消したのだ」などと批判され、さらに炎上を招くことがある。

わたしもこれまで、自分のブログのトラックバックポリシーなどを表明してきた。それは非常に開放的なものであった(「絵文録ことのは」のトラックバック・ポリシー [絵文録ことのは.]2005/05/24など参照)。

しかし、今、わたしはあえて、このブログの運営方針として、以下のポリシーを掲げることにする。

  • このブログに寄せられたコメント・トラックバックは、原則として削除します。
  • ただし、管理人が消すのを面倒くさがったり、関心を持ったりしたコメント・トラックバックは残ることもあります。
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「ググる」は「考える」ためのとっかかりを探すこと

Life is beautiful: 自分で考える前にググっていませんか?の記事を発端に、「ググる」ことと「考える」ことの関係についての議論がいくつかのブログで行なわれている。

これらの議論は、切り口は異なるものの、いずれも妥当な問題意識の上に成り立っていると思う。その上で、屋上屋を重ねる形で、リテラシーという観点から述べるならば、「ググって得られる情報を鵜呑みにするのはリテラシー不足」ということになろうかと思う。

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稚拙な印象操作を駆使する記事には、「一次情報」に当たることが重要

 自分のブログ記事へのリンクがあったので、こんな記事があることを知った。

 ふむ、なるほど。最初に例示されたブログ記事は、確かに「テレビ番組のネタを完全にパクって紹介し、オリジナルな意見もほとんどない」といえそうだ。だが、このブログではさらに続けて「こうした作法はブログ界ではどれほど許容されているものなんでしょうか」と語る。そして、引用の度がすぎるようなものがブログ記事として受け入れられている、として、はてなブックマークで人気のサイトを列挙し、「オリジナルとは程遠いブログがずっと持ち上げられている」「アクセス数を稼ぐためにはオリジナリティというのは全く必要な要素ではないようです」と結論づける。

 この記事に対して「ホッテントリといえども既存の情報を加工しただけと検証」というブックマークコメントもついた。

 だが、ちょっと待ってほしい。そこで列挙されたURLは本当にそれを裏付けているのだろうか。というのも、そこに挙げられた私の記事(この一つ前のものだ)は、100%オリジナルな記事なのだ。

 そこで、列挙されたURLをすべて見直してみた。

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関西人250人に聞きました。「やが」という関西弁はほとんど使われてないんやけど。

 いわゆる関西弁の特徴の一つとして、断定の「だ」が「や」になるというものがある。「そうだ」→「そうや」、「なぜだ」→「なんでや」といった具合である。これで関西風の表記になりそうや。

 しかし、どうにも違和感があったのが、たとえば雑誌に載っているダウンタウン松本の連載記事の中で、もちろんいつもの松本の言葉に近いのだが、←今ここで使ったような「だが」を「やが」と書いていることがあったりする。それ以外にも、雑誌やスポーツ紙などで使われるメディア関西弁では「だが」が「やが」と書かれていることが非常に多い。

 そして、関西弁風のブログなどでも「やが」という言葉が使われていることがある。

 ところが、自分は「やが」という言葉を使ったことがないのである。「近いんやけど」とは言っても「近いんやが」とは絶対に言わない。そのため、「やが」というのは関西弁もどきの書き言葉ではないかと考えた。

 そこで、人力検索はてなで簡単なアンケートをとってみたんやが……(←こういう「やが」がニセっぽい)

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バレンタインデーの起源と歴史

 バレンタインデーの起源について、以前やっていたサイトのために書いた記事データが見つかった。読み返してみると、多少宗教性を除くように修正すれば使えそうなので、今回、ここに新版で公開することにした。

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「集合知」ウィキペディアの限界と可能性(Wikipediaの役割について)

 先日、自前のウィキ百科サイト「閾ペディアことのは」を立ち上げてみた。これは、Wikipedia(ウィキペディア)と同じくMediaWikiで作られた極私的百科である。「集合知」の典型ともされるウィキペディアに対して、自分のは当然「個人のまとめ」であって、その性質は自ずから違ってくるのは当然であり、そのどちらがいいとか悪いではなく、それぞれに役割と得手不得手が出てくることになる。

 さて、ウィキペディアの運営方針をもとにして、それを少しもじるつもりで自分の運営方針を書き始めてみたところ、どういうわけか完全に逆転してしまった。そこで、改めてウィキペディアというものの存在と性質を考えてみようと思った。

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