「言葉」と一致するもの
サイト更新されず――ウェブログの使い分けと「更新しない勇気」
気がついたらこのブログを1カ月近く更新していなかった。ブログは定期的に更新しないと!という人もいるけれども、私は個人的にこういうのもアリだと思っている。
この1カ月間、実は「女子十二楽坊資料館」のニュースとブログ(どちらも、というかサイトの大半がMovableTypeで組まれている)で怒濤の更新を繰り広げていた。ちょうど7月半ばのメンバー来日に合わせてサイトを移転し、全体をブログツールで完全に構築して更新しやすくした。さらに、アメリカ進出に関連して8月に入る前後からはアメリカでの動向をひたすら追いかけ、現地からコンサートレポートが上がってくれば即座に日本語訳して掲載、といったリアルタイム更新をやっていたのである。
人それぞれのスタイルというものがあるから、これも一つのやり方と思ってもらえれば充分なのだが、私は別にまんべんなく更新する必要もないと思っている。その結果の「メインブログ未更新」だったわけだ。
そんな中、裏雑記として使っているはてなダイアリーの方で、ちょっとしたやりとりがあった。
イエスの愛国心 内村鑑三
イエスの愛国心
内村鑑三
『聖書の研究』明治43年8月
現代語訳:松永
※ここしばらく先人の見解を掲載しますが、必ずしもそのすべてに賛同しているわけではありません。参考意見としての掲載です。
悪魔の辞典の愛国心
アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』には、愛国者・愛国心は以下のように定義されている。
【PATRIOT】愛国者
(名詞)一部の利益が全体の利益よりまさるように思ってしまう人。政治家のいいカモ、征服者の手先。
【PATRIOTISM】愛国心
(名詞)自らの名声を輝かせたいという野望を持つ者の火種となる燃えやすいゴミ。
ジョンソン博士の有名な辞書では、「愛国心」は「ならず者の最後の拠りどころ」と提議されている。賢明ではあるがよろしくない辞書編集者に対して、払うべき敬意は払いつつも、それは「最初の」拠りどころであると具申させていただきたい。
確かに、一部の偏狭な自称愛国者の中にはこういう人もいるようだ。よりによってうちのブログを荒らす頭の悪い愛国気取りの中国人も含めて。ただし、愛国心のすべてがこんなものではないと信じたい。
私が「国」という枠組みについて何か言うとしたら、この江戸時代の米沢の明君・上杉鷹山の言葉「伝国の辞」をおいてほかにはない。
こういう明君のもとにあれば、私ももう少し「国」という枠組みに対して関心を持てたかもしれない。
- 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
- 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
- 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候
これからいくつかの記事で、愛国関連の先人の言葉を翻訳して載せたりすることにしようと思っている。
Gypsy Blood「愛すべき場所は二つ」/松永的愛国心論まとめ編
3編ほど愛国についての記事を書いたところ、いろいろ反響がありました。最近の事件を話題に触れたため、どうもその件について中国を擁護しているかのような誤解を招いたこともあり、また私の前提としている考え方がどうも一般的でないことがわかってきたこともあるので、前3編は一旦ボツとしたいと思います。
そして、改めてこのエントリーにて、私の愛国心論について改めて清書してみたいと思います。ただ、これもまだ完成稿とは言えないでしょうが。
「愛国」問題を出すとこのように誤読される
※この記事は草稿としてボツにしました。Gypsy Blood「愛すべき場所は二つ」/松永的愛国心論まとめ編にて改稿しています。
やはり恐れていたとおりになった。前の記事「偽りの「愛国」、隣国への嫌悪」で愛国心の表し方についての疑義を示した。そして、内容も読まずに私が「反日」であるとか、「朝日的」とか言い出す人が絶対出てくることが予測されたのだが、案の定そのとおりだった。だから、いやだったのである。
しかし、私が「中国の反日教育」に対しても批判しているのが読み取れないほど難解な文章だったのだろうか、と、自らも反省中。
そこで、コメントの中にいくつか有意義な話題もあったので、改めて記事としてまとめてみたいと思う。
なお、途中までしか読まずにコメントを付けるのは勝手だが、当方もそういうコメントには対応しないのでご了承を(そういうコメントには見当外れなことしか書いてないし)。
偽りの「愛国」、隣国への嫌悪
※この記事は草稿としてボツにしました。Gypsy Blood「愛すべき場所は二つ」/松永的愛国心論まとめ編にて改稿しています。
本当はこういうことは書きたくない。政治的にセンシティブな話だし、ややこしい議論に巻き込まれたり、感情的になった右・左の人たちから脊髄反射的な攻撃を受けたりしかねないからだ。しかし、今、言わなければいけないように思う。
本当の愛国というのは、隣国を嫌ったりバカにしたり粗を探したりすることではなく、自分たちを一層磨き上げ、隣国から尊敬される人になっていくことではないのか? 自称「愛国者」たちは、他人(の属するラベル)に対する悪口を言わなければ自分のアイデンティティを保てないほどおちぶれてしまったのか?
ウェブログと日本型掲示板は馴染む(TeaCupがブログ参入)
個人掲示板としては随一の利用者数を誇るTeaCupがAutoPageという名前の無料ウェブログサービスを開始した。個人的には、昨年の「ココログがウェブログ参入」以来の、日本ウェブログ史上の画期的なポイントになるのではないかと思う。
『ウェブログ超入門!』(とそのボツ原稿)でも書いたとおり、日本の掲示板コミュニティはブログと親和性が高い。TeaCupユーザーがウェブログを使い始めることによって、ますますウェブログという言葉は一般用語として当たり前のものとなっていくことだろう。
ブログ異端派 BlogHeterodox
「最低限のブログスタイルは守っているぞ」という趣旨でd-s-jのjackalさんが始めた「ブログ正統派(BLOG orthodox)」という提言がある。
一見なるほどというような内容になっているようなのだが、実は私はこのすべての裏返しを言いたくてたまらなくなるのだ。そこで、「ブログ正統派」に対して「ブログ異端派」を提言したい。つーかバナーとか作る予定はありません(笑)
追記。だーつさんがバナーを作ってくれました(笑)。つーか悪のりしすぎ。
トリビアの語源は「3つの道」
今日の雑学:triviaの語源の逆遠近法的解釈の試み(0x0a by SUZUKI, S. V)で「トリビア(trivia)」の語源についてのちょっとした調査が載っていたので、ネットでもう少し調べてみた。どうやら、「トリビア=無駄知識」という意味にたどり着くまでには2つの経路があったようである。
虚構が真実味を生む。近松門左衛門の創作論「虚実皮膜」
人形浄瑠璃・歌舞伎の脚本作者である近松門左衛門(1653~1724)の芸術論として有名なのが「虚実皮膜(ひにく)」の論である。これは「創作においては、事実を完全に描写するのではなく、多少事実と外れるところがミソ」という話なのだが、ネット上ではなかなかその解説が見当たらなかった。
この近松の話は、浄瑠璃だけではなく、一般の創作や表現活動で(つまり音楽やイラストなどでも)非常に参考になるものだろうと思うので、ここに虚実皮膜論に関する部分を全部現代語訳して公開したい。