「言葉」と一致するもの

君が代の解説変更:在ドイツ日本大使館

在独日本国大使館の「君が代」の訳文が訂正されている。君が代の訳語に「君主」や「支配」という表現が含まれることが問題視されたものだが、すでに修正済み。今回はその修正前・後を比較してみたい。

続きを読む: 君が代の解説変更:在ドイツ日本大使館

日本の女帝8人10代+4人の系譜 女性天皇即位の経緯を探る

 女性天皇を認めるか否かという問題が検討されつつある。そこで、今回は歴代の女性天皇(+α)についての即位の経緯やその治世についての状況を簡単にまとめてみた。今回取り上げた日本の女帝は以下のとおり。

  • 卑弥呼
  • 台与
  • 神功皇后
  • 飯豊皇女
  • 推古天皇
  • 皇極/斉明天皇
  • 持統天皇
  • 元明天皇
  • 元正天皇
  • 孝謙/称徳天皇
  • 明正天皇
  • 後桜町天皇
続きを読む: 日本の女帝8人10代+4人の系譜 女性天皇即位の経緯を探る

「よろしかったですか」の歴史と心理的背景を探ってみる

 ファミレスやコンビニでよく使われる「ファミ・コン語」の中でも特に違和感のある「よろしかったですか」について、ウェブ上で見られる情報をまとめてみた。特に「北海道方言起源説」を中心に、どのような心理でそれが受け入れられるに至ったか、そしてなぜ反発を受けているのかについて考えてみたい(今回の前半は引用中心だが、後半には私の考えがまとめてある)。結論は「店員の側の押しつけ敬語」ではないかということである。

続きを読む: 「よろしかったですか」の歴史と心理的背景を探ってみる

世の人はどうして実用的文章を作るのが簡単ではないと思うのか

 しかし、世間の実態を見ると、世の中の人はよくこういうことを言っている。

「どうも文章を書くのは難しい、難儀なことである。厄介である。おれは文章家でないから到底書けない」

という言葉であるが、こういう言葉はしばしば私が耳にする。

 なるほど、世の中に容易なことは一つもない。実に一本の直線を紙の上に書くのであっても、また決して容易なことではないのであるから、ましてや文章を書くという複雑なことが容易であろうわけはないのである。

 しかし、文章が文章を書くのは難しいだろうが、実用的文章を普通の人が書くのはそう難しいことではないはずである。なぜかといえば、演説家が演説をするのは難しいかもしれないが、普通の談話を普通の人がするのはそう難しいこともないのとちょうど同じことである。また、俳優が農夫に扮して農夫を演ずるのは――つまり俳優が技を示すのは難しいかもしれないが、本当の農夫が農夫の動作をするのが難しいという道理はない。

 今、ここにある人が言葉を発して何ごとかを語ろうとするとき、その語られるべき内容はすでに存在しているのである。で、その存在している実質をそのまま明らかにするのは、たとえば風呂敷包みの中のミカンをただその風呂敷を取りのけて示すようなもので、何の難しいことはないのである。ふだん我々が「鉛筆を買ってこい」とか「郵便を出してこい」とかいう言葉を発する場合に、その言葉を発するのは実に容易なわけで、それはそれらの言語を発する前に、すでに「鉛筆を買ってきてもらいたい」とか「郵便を出してほしい」というものが存在していたので、言葉を発したのは実はただ一枚の風呂敷を取り除く程度の労力と同じようなものであった。これが容易なのは実にわかりきったことである。

 文章は、我が国においても他の国においても、文章=話し言葉とはいいがたいものであるが、しかし大体において文章と話し言葉とは、その性質・作用・体形や人間との関わりにおいてほとんど近いものであり、場合によっては「文章も話し言葉も同じものだ」と言っても差し支えないものである。

 いずれにしても、話し言葉と遠い距離があるわけではない文章というものの中でも、特に実用的なのに至っては、やはり「鉛筆を買ってこい」「郵便を出してこい」などという言葉とあまり違わないものであると同時に、これを書くこともまた実に容易なのである。

続きを読む: 世の人はどうして実用的文章を作るのが簡単ではないと思うのか

Excite エキサイト翻訳の「珍訳」対応表

 エキサイト翻訳の中国語翻訳に日本語を放り込んでおいて中→日翻訳をするととんでもない訳語が出てくる、という話題が一部で盛り上がっているようだ。例えば、「ハードディスクドライブ」を中→日(日→中ではない)で翻訳すると、なぜか「玉を振ってしようがなく奴隷の朝の兵の玉を犯して牛乳を沸かしたときにできる膜をまねる」と出てくる。これについてブログ等で取り上げられた実例を列挙した後、その仕組みに迫ってみたい。

続きを読む: Excite エキサイト翻訳の「珍訳」対応表

著作者人格権:何が問題で、どう書くべきか?

 Livedoor Blogの著作権条項改訂から始まった「ブログの規約における著作者人格権規定」の問題。前のエントリー「LivedoorBlog以外にも権利侵害規定!ブログ著作権規約を全チェック」が長くなってきたので、前エントリーは一覧と規約抜粋のみとし、著作権について考える内容を書き直すこととした。合わせて、「どのように書くなら問題がないのか」といった点についても追記している。

続きを読む: 著作者人格権:何が問題で、どう書くべきか?

「民主党=青、共和党=赤」の色分けは4年前に始まったばかり

 アメリカ大統領選挙で、民主党=ケリーが勝利した州は青く、共和党=ブッシュが勝利した州は赤く塗られている図をよく目にするようになった。ところが、民主党のシンボルカラーが青だとか、共和党が赤だとかいう風に決まっているわけではない。

 実は、この色分けはわずか4年前、2000年に始まったものだという。それ以前は逆に民主党=赤、共和党=青という時代もあった。そして、これはどうやらマスメディアでの「暗黙の了解」のようなものらしいのである。

 先日のワシントン・ポストのコラム記事にそのあたりの事情を書いているものがあったので、翻訳してみた。

続きを読む: 「民主党=青、共和党=赤」の色分けは4年前に始まったばかり

「知能指数が高い州は大統領選で民主党ケリーに投票」データの嘘を徹底解明

 「DynamiteTV【海外ボツ!News】:知能指数と政治の関係」で紹介されたことがきっかけになって、日本でも「平均知能指数と大統領選挙の結果を照らし合わせた表」(出典はここ→IQ and Politics)が出回り、「ブッシュに投票する共和党は頭が悪い」という印象を裏付けるものとなっている。

 しかし、この情報は嘘だ。「Richstyles!: 米大統領選の投票者とIQの相関はデマ情報」で鋭く指摘されている。

 先日、木村剛氏が中越地震でのマスコミの振る舞いについての「噂」情報を、検証することなく「真実」としてブログに書いた騒動があったが(木村剛の「マスメディアへの対抗意識」は時代錯誤。中越地震マスゴミ批判記事を検証する参照のこと)、今回のブログ界でのデマ流布と共通するのは「自説を強化する情報は検証することなく、真実・事実として広めてしまう」傾向があるということだ。木村剛氏にとって、中越地震被災地でのマスコミの傍若無人な振る舞いを描いた情報は「おいしい」ものだったし、「ブッシュに投票するなんて頭悪いんじゃないの?」と思っている人(まあ、私もそう思ってるんだが)は「民主党に投票した州はIQが高い」という表を見ると「やっぱり」と思ってしまう。

 そこで「ちょっと待てよ」と思えるかどうかが「メディアリテラシー」を発揮できるかどうかの境目だ。特に自分にとって都合のいい情報、おいしい情報のときほど疑ってかかる必要がある(都合の悪い情報、嫌な情報ならどうしたってあら探ししたくなるものだからね)。

 今回は、Richstyles!さんで紹介されていた「検証サイト」のブログ情報を全訳してみることとする。

 非常に大量のデータであるが、じっくり読んでいただきたい……というところで最初に警告しておく。読めばわかるとおり、この著者Steve Sailer氏は明らかに共和党支持的論調でこの検証を行なっている。つまり「間違ってたじゃん!」とこの情報を真実として流すならば、今度は共和党のプロパガンダの片棒を担ぐことになってしまうわけだ。さあ、あなたのメディアリテラシーはいかが?

続きを読む: 「知能指数が高い州は大統領選で民主党ケリーに投票」データの嘘を徹底解明

文章本来の約束

 記事文は同じ記事文でも、実用的な記事文と美術的な記事文が同じようなものであるべき道理はない。美術的な記事文ならば、それが美術的であるということ、すなわち美術的であらねばならないということが第一に主要な約束である。実用的な記事文ならば、それが実際の役に立ちえるものであらねばならないということが第一に主要な約束である。その文章の本来の約束ということは実に大切なことである。

 奈良の吉野は桜の花の美観で有名な場所であると同時に、材木の産地としても有名である。今、もし林業者が同地を視察してその記事の文章を作るとすれば、それはすなわち実用的文章で、そしてその文章はもちろんのこと、林業者にとって何らかの参考になったり、利益になったりすることを目指しているのである。で、その一事がその文章本来の約束となっているのである。だからその文章は、事実を離れないように、浮いた言葉のないように、明らかに、わずらわしくなく、漏れのないようにできさえすれば、それで十分であり、上々であるのである。

 しかし、もしその文章の中に、支那風の悪く難しい形容の言葉や、日本古代の生ぬるい死語などがたくさん埋め込まれていたり、あるいはまた「白髪三千丈」などというような誇張はなはだしい文字が使ってあったり、「これはこれはとばかり花の芳野山」などというように人の感覚に訴えようとする気の利いた詩的言語が多く使われていたりするとするならば、それは面白くない、よろしくないと言わなければならない。なぜといえば、それらのことは、その文章本来の約束で求められている明瞭さ、確実さ、詳細さというものをいくらか損なう一方、不要な別の意味を付け加える傾向があるからだ。

 また、今もしある詩人が芳野の花を見てその記事文を書いて、まだ知らない人に吉野の美しい景色を想像させようとしたとすれば、その文章の本来の約束は、優美さだとか崇高さだとか、何らかの美を有するということである。で、その文章には、何の谷に桜の樹が体積にして何百何十本あるだの、何の谷に杉の根回り何尺以上のが何百何十本あるだのといった記事や、どこそこの地質は輝石安山岩だの凝灰岩だの水成岩だのという記事なども、必ずしも必要ではない。挿入するのは任意だが、林業者の視察のメモや、地質調査の報告書のようなものになってもらってはむしろ不本意なのであって、要するに何でもよいからいわゆる美的感覚を提供するものであってほしいのである。どんな文体で、どんなことを書いてもよいのだが、要するに読者に美感を感じてもらえればそれでいいので、そうでないならそれはよろしくないのである。失敗したのである。

二種類の文章を一緒くたに論じるのはおかしい

 そこで美術的文章と実用的文章の間には、二つをごっちゃにできない厳然たる壁が存在していて、その壁が二つを明白に区別している。

 つまり、実用的文章の側からいってみると、実世間における直接の任務の有無ということがその壁に示されている。また、美術的文章の側からいってみると、美感の有無ということがその壁に大書してあって、人に美感を与えない文章はこちらに入ってはならん、と拒絶しているのである。

 この美術的文章と実用的文章では、その目的が各々異なるので、おのずからその性質や機能や色彩や様子がみな異なってくる。で、二者を混同してしまって一緒くたに論じることは不可能で、かつ不合理なことである。

 例を上げれば、数理を解くときの文章は実用的文章で非美術的文章であるし、詩はもとより非実用的文章で美術的文章である。

 そこで、数理を解いた文章にもし論理の筋道が幽玄で補足しがたいところがあったりなんかしたら、大いに責めとがめなければならない。しかし、詩の方では、感じが曖昧模糊としてさえいなければ、論理の筋道はいささかぼんやりしていて隅々まで明白でなくても、さほどとがめられないのである。ちょうど、地図は正確明瞭でなければ不可だが、絵は雲・霧が山川を覆うところを描いても差し支えない、というのと同じ道理である。

 さらに一つ例を挙げてみるならば、美術的文章の方では擬古文というのも許される。すなわち、場合によっては荘重でありたいという希望から、非常に古い言語や文字や文法を用いて書いても、それはそのやり方で成功さえしていれば、別にとがめ立てはしないのである。しかし、実用的文章の方では擬古文は不可としなければならない。『書経』や『左伝』の調子で数学の本を書かれたり、『源氏物語』や『伊勢物語』のような文体で商業視察の報告を書かれたりしたら、実に困ることになるから、絶対に排斥しなければならない。「鄭伯、段に鄢に克つ」というような調子や、「……あんなれ」「……べかんめる」などという古くさい文体を持ち出されたりした日には、実際世界の用事は果たせない。それゆえに、美術的文章の方では擬古文を許しても、実用的文章の方では擬古文は許せない。

 そこで、実用的文章と美術的文章の二種類の文章を一緒に論じることはできない、という結論になる。しかし、この事実を無視して、ただ一つの「文章」という言葉なんだから、文章とさえいえば同じもののように見なしてしまって、それでいて修辞法や作文法を教えるなどと言っているものがいるのは、本当に大づかみの議論で、詳細を尽くしていないと思われる。

 つまり、同じ定規をもって取り扱うことのできない、まるで異なった性質のものを、一つの定規で律しようというのは、元来無理である。

 古来、このことを無視して文章を論じたり、あるいは作文法を教えたりしているのは、たとえば兵士と農夫とは志すところがおのおの異なっているのに、二者を混同して論じたり教えたりするようなもので、不合理であることは言うまでもない。田んぼで耕し、収穫するときの態度と、戦場においてかけずり回るときの態度を一緒にすることはできない。鋤をとって土をいじる道と、剣・戟を振るったり銃砲を扱ったりする道とは、その精神も異なっていれば、手段も違っている。作業も違っていれば、希望するものも違っている。それを同一にしてしまって、「田んぼを耕す動作が遅い。戦場で駆けるように敏捷にすべきである」などといったところで、それは気が狂ったような言葉であるし、小銃の持ち方を教えるのに「鋤の持ち方のようにすべきだ」と言ったならば、それも気の違った言葉であろう。

 で、そんな馬鹿げたことは誰も言ったりしない。しかし、文章ではちょうどそれと同じような論じ方や教え方をしていて、それでも不思議に思っていないのが世間の常である。習慣が長くなると何ごとも疑わないものであるが、美術的文章と実用的文章を同列に論じたり教えたりするようなのは、実に不合理である。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33  

アーカイブ

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。
過去に書かれたものは月別・カテゴリ別の過去記事ページで見られます。